満州帝国の興亡から学んでみる
日露戦争の始まる前の1904年、シベリア鉄道ができた頃の満州地域の
人口は、100万人とも500万人ともいわれる。
1911年の辛亥革命の頃は1800万人。
1915年には2000万人。
1932年に満州国が建国された時は3400万人。日本人は24万人いた。
内訳は、漢人83%、満人と蒙古人15%、日本人と朝鮮人=日本人)は2%
だったらしい。(但し、支那の歴史記述による)
1938年には3900万人。日本人は52万人。
1935年、満州帝国と、ソ連の援助でできたモンゴル人民共和国は、国境の
問題でハルハ領事件を起こした。ーーーソ連は、1936年からモンゴル人民
共和国に本格的な軍事援助を始めていた。
1939年5月、ハルハ河の東側でモンゴル軍と日本軍が衝突、7月にはノモ
ンハンで戦うことになったが、ソ連軍とモンゴル軍の機械化部隊は強く、8月
にも日本軍はソ連・モンゴル軍に負けてしまう。ソ連・モンゴル軍の死者は、
実際は日本軍より千人多かったが、当時は3百人から4百人だと発表して
ソ連・モンゴル軍が圧勝したとされた。
支那事変の頃の1941年には満州の人口は4300万人。
支那の大地は軍閥同士が戦う混沌とした状態で、国といえる状態では
なかったので、安定と繁栄を求めて支那人が続々と満州に流入してきて
いた。
支那は、日本と交わした様々な協定を守らず、日本の権益を無視し続け、
日本人居留民に暴行を加え続けていた。そんな状態から、満州地域を支那
と切り離すのは関東軍の願いであり、大勢の日本人の願いだった。
日本を追いつめるアメリカに日本は宣戦布告し、大東亜戦争が始まった。
1945年2月、ヤルタ会談でアメリカは、ソ連に参戦の見返りとして日本の
領土を与えると約束。日本は知らずに、ソ連にアメリカとの停戦仲介を頼む。
8月6日、広島に原爆が投下され、ソ連は8日に日本に宣戦布告。
9日にソ満国境から侵攻を開始してきた。モンゴルも10日に日本に宣戦布告
する。同日、長崎に原爆が投下される。
1945年8月14日、日本は「無条件ではなかったポツダム宣言」を受諾。
15日に天皇が終戦の詔勅を放送。こうして日本は大東和戦争に敗れた。
16日は、大本営から即時戦闘行為の停止命令が出たが、ソ連は戦闘を
継続、領土の拡大を図った。
満州には155万人の日本人がいたが、壮年男子は徴兵
されていた。残りの22万人の開拓移民の内、老人、婦人、子供1万人が8月
9日に侵攻してきたソ連兵に殺された。
関東軍は、ソ連が侵攻してくることを予想しながら、南部を中心に防衛をする
という軍の方針変更をソ連に漏れることを恐れて北満の日本人移民に教えず、
北部を放棄して撤退した。
日本に帰れず、残留させられた婦人や子供が、今「中国残留婦人、残留
孤児」と呼ばれているが、残留というより、軍に打ち棄てられて取り残され
た日本人のことだ――――。
8月19日、日ソ間の停戦交渉が行われた。日本軍の武装海解除は8月末
までに終わったが、スターリンは、すでに離隊している者まで捕らえて、
捕虜として50万人をシベリアに連れ去り、強制労働に利用せよという命令を
下した。
まず、日本人の捕虜は、満州の産業施設の工作機械を、満鉄を使ってソ連
に運び出すために使役された。旧満鉄社員と山崎元幹満鉄総裁等全員が
日本に帰れたのは――――1947年7月。
その後、日本人60万人がシベリア、中央アジア、コーカサスに抑留され6万
人が死に、引き上げまでの収容所で13万人が死んだ。モンゴルは、ハルハ
河での戦闘とノモンハンでの代償と考えて日本人捕虜を使役に使った。
1945年11月、日本政府はその事実を知り、1946年5月、アメリカを
通じてソ連との交渉を開始して、12月、日本人抑留者の返還に関する米ソ
協定が成立。12月8日、5000人のみ返還されたが、最後のシベリア抑留
者が帰還できたのは1956年12月――――終戦から11年後だ。
ソ連は1000人の元日本兵を思想改造用に支那共産軍に送った。
1956年に一部の日本人捕虜が帰国する。古海氏(総務庁次長)が帰国で
きたのは――――戦争が終わってから18年後の1963年。
日本軍が終戦で武装解除したあと、1945年8月22日、ソ連軍は大連に入
り、大連市長を任命。20万人の日本人を日本に帰したあと、空き家を支那人
に支給した。ソ連は1951年2月まで、大連港を管理運営。満鉄は1952
年12月まで実質的に支配した。
日本軍の武器はソ連を通じて共産党軍に渡された。また、医者や鉄鋼関係
の技術者や軍の訓練に使えそうな日本兵は共産軍の教育用にかり出された。
子供連れの家族で共産軍と共に支那の大地を動き回った医者の家族もいる。
日本人避難民はソ連軍に銃で脅され略奪され、婦女子は強姦された。なか
には子供の目の前で輪姦された婦女子もいた。ソ連軍は、一般日本人の
引き上げにはまったく冷淡であった。
中国人が暴徒化し、反日・侮日が続き、日本人避難民は小学校や官舎や寮
に収容され集団生活を始めるが、食糧も医薬品も衣類もなく、栄養失調や
病気で、1945年中に9万人が満州で死亡。1946年5月迄に4万人が死亡
した。
その頃には国民党と共産党の戦闘が始まっており、アメリカと国民党が国民
党の進出地域から日本人を引き上げさせた。
多くの元日本兵が共産軍に何の裁判も受けることなく処刑された。
155万人いた日本人のうち、17万6000人が死亡。全満州在留邦人の
65%、101万人は自力で内地へ引き上げた。
戦後の満州は、支那の重工業清算の9割を占めた。――――満州の遺産を
食いつぶしてしまってから、支那は改革解放政策をとり始めたのだ。
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以上は、宮崎淳子著「世界史のなかの満州帝国」PHP研究所(760円)か
らの抜粋です。ほんの一部分しか紹介しておりませんので、本を購入されて
読んでください。――→ http://chinachips.fc2web.com/tiny/061127.html
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●-情報を正確に把握していないとこうなる。終戦の仲介をソ連に頼ったの
は間違い。敗戦後アメリカは、日本がアメリカに宣戦布告する以前の
問題にまで遡って裁いた。
当時の情勢からすれば日本だけ裁かれる謂れはない。
●-アメリカがソ連に、千島列島の占領について黙っているのは、ヤルタ
会談でソ連に、参戦してくれたら南カラフトと満州の利権、千島列島を
日本のシベリア出兵の代償としてソ連に併合してもよいと話をしていた
から。
当時、日本はまだアメリカに占領されていなかったのだから、その約束
は無効のはず。
ソ連は北海道まで占領しようとしたので、アメリカは慌ててソ連を牽制
した。
●-日本が有利な戦況の時にアメリカと停戦を図るべきだった。
●-戦争をやる気満々の強い国には、黙って従っていないで、普段から
文句を言って相手の悪い部分を指摘して外国の同情を買うこと。
黙って従っていたから、遂に戦争に至った。
ハルノートを突きつけられた時に、大騒ぎして世界中に訴えるべき
だった。
勝てそうにない戦争なら最初からしない。今でも日本と戦争をした
がっている国に対しては、思い切り文句を言って世界に訴えよう。
文句を言わずに黙々と従っていると、気が付けば袋小路に入っていて
抜けられない。
●-資源の無い国をイジメルような政策を取った西洋やアメリカも悪いのだ。
今では、戦争が起こらないように、極端な不均等が起こらないように世界
の経済を管理していくシステムが必要だと、世界が理解している。そうい
う国際的な協調ができない国には、日本は文句を言うべきだ。
●-日本は武力無しで、世界で発言力を持とうとしている珍しい国。今では、
毎年2割の軍事費を増強している、武力も金も持つ国が、アフリカ、南米
東南アジアで金をばらまき、発言力を高めている。
今後、日本はどうやって日本の主張を世界に発信していくつもりなのか。
おとなしく黙って、我の強い国にされるがままになっているクセをなんと
かするためには、「文句を言える実力のある日本」になるべきだ。
袋小路に追いつめられたから、開き直っても遅いと言うことが分かったの
だから、情報を集め、自分の国は自分で守れるような、世界に尊敬される
ような国であり続けないといけない。
●-二度と原爆を落とされないようにする。原爆を持っている国には、もし原
爆を日本に落としたら、どういう困難が相手国を襲うのか、普段からしっ
かり語っておく。不安定な国には原爆を持たせないように、あらゆる国を
利用して妨害する。