アメリカの制度をマネするな
『from 911/USAレポート』第279回
「アメリカの制度をマネするな」
■ 冷泉彰彦 :作家(米国ニュージャージー州在住)
■ 『from 911/USAレポート』第279回
「アメリカの制度をマネするな」
今週のアメリカはいつになく浮ついた好況感の中で感謝祭を控え、どこか
気分もゆるみがちなのですが、そんな中、TVではOJ・シンプソンの
「告白(?)本」の問題が何度も取り上げられていて、イヤな気分にさせら
れました。1994年に起きた前妻(とその交際相手)の殺人に関して、刑事
裁判では無罪、民事裁判では敗訴(つまり殺人への責任を認定)という異な
る判決を受けたNFLの元スター選手に関してはFOXニュースで知られる
ニューズ社の企画として、本の出版とドキュメンタリー番組への出演が
計画されていたのです。
タイトルが『私ならこうやった "IF I Did It"』と実にセンセーショナルなばか
りか、ニューズ社からは「この内容は彼なりの告白だと思う」というコメントが
出て全米を驚愕させました。民事裁判の結果はともかく、刑事裁判では
無罪、つまり「シロ」と認定されているシンプソンが「オレならこうやる」という
表現で「殺人の真相を詳しく語る」というのです。これでは司法の権威も
あったものではありません。結果的には本もTVもキャンセルになりました。
このシンプソン事件に関して言えば、非常に疑わしいにも関わらず無罪に
なった、そのことよりもそのプロセスが問題です。
最後には「疑わしきは罰せず」という原則が失態を続けた検察に勝ったの
ですが、そうしたドラマ風の解説では不十分なのです。何よりも、証拠
認定にしても、証言の評価にしても、積み上がった判例をもとに論理的な
判断のできる体制がなかった、そこに最大の問題があるのだと思います。
日本の場合も裁判員制度の導入によって日本の司法が明治以来の
「大陸法」の伝統として堅持してきた実定法に加えて判例を尊重する姿勢、
それが大きく崩れていくとしたら問題です。アメリカの陪審員制度は、合意
形成システムとしては見るべきところがあります。ですが、判例という
客観的な事実を判断の根拠として据える、それを必要があれば変更しな
がら判断の一貫性を保つ、この部分においては明らかな脆弱性があり
ます。何となく市民が参加しているからとか、判断のスピードを早めても
異論が出なさそうだ、あるいは価値観や背景事情などの抽象的要素を
判断に加えられるからといって、そうしたアメリカ司法のマネをするのは
得策ではありません。
アメリカのマネをしたほうが良い問題もないわけではありません。
国会の審議における党議拘束の問題などがそうでしょう。日本では、
任期中の国会議員は所属会派を変えない限り、党議に反して独自の投票
行動はできません。これは自民党から共産党まで全く同じです。
その結果として、選挙区の民意が党中央の決定とは違う場合は、民意は
完全に無視されます。また選択肢が単純化されすぎることにもなります。
例えば、ある政策に関して対立点がいろいろあり、選択肢が多くあったと
します。
自民党や民主党ではその中から党の方針を絞り込むわけですが、その
党内プロセスは全く閉鎖的なのです。最近のメディアは「永田町の人間ド
ラマ」的な味付けで面白おかしく報道して、何となく世論も騙されてしまいま
すが、本来はそこで選挙区ごとの民意、地方ブロックごとの民意というもの
がオープンに出てきて、選挙民の代理としての議員の投票行動を縛るべき
だと思うのです。
そうでなくては、主権者として主権行使ができません。
タウンミーティングなどという制度が機能しない背景には、そうした主権者の
軽視があるのです。そもそも公共の場で、「愛国心教育に賛成か反対か」
意見を求められても、積極的に発言する人はどうしても、どちらかの極端
な信念の持ち主が主となるに違いありません。そうした発言がイヤだから
といって、「やらせ」でごまかすという発想が出てくる背景には、どうせ
各政策での民意は「聞くふり」だけでいいという発想があるのです。
ですが、各選挙区の後援会の中では「前のセンセイ(主権者の代理人を
センセイと呼ぶのは醜悪な習慣ですが、その問題はさておくとして・・・)は
違う言い方だったけど、今のセンセイとしては時代が変わったということです
かねえ。オレはどうも納得できないんですがねえ」ぐらい誰でも言える
でしょう。そうした主権者の素朴な声を国会審議に反映するシステムを、
日本ではどの政党も持ち合わせていないのです。
首班指名を除く各法案審議などについては、基本的に党議拘束を外すべき
だと思います。
そうお話するとアメリカの議会制度はお手本になりそうに聞こえます、
ただ、アメリカの民主主義の中でも単純な対立軸を設定しすぎる傾向はマネ
すべきではありません。「小さな政府か大きな政府か」あるいは「一国主義
か国際協調か」というような単純な、そして時には有効でない二分法につい
て大の大人が大まじめで選挙戦を繰り広げ、その結果で大きく国の政策に
ブレを生じるというのは粗雑にすぎる考え方です。
どんな問題にも選択肢は三つ四つあるいは五つぐらいを検討対象として
世論に問えるようでなくては、現実に対処できないのではないでしょうか。
選択肢が二つであっても他の問題の選択肢との組み合わせでは、やはり
四つとか六つから選ばねばならないこともあるように思うからです。
さてアメリカの模倣が正しいかどうかということでは、もう一つ、大きな制度
変更として、厚生労働省と日本経団連が積極的に導入を目指している
「ホワイトカラーエグゼンプション」(自律的労働制度)の問題があります。
一定の年収を保障した上で、時間外手当(残業代)の支払いを対象外と
するこの制度は、提案者側からは「アメリカで既に導入されている」というの
ですが、この問題は裁判員制度どころではない大変な問題を抱えていると
思います。
というのは、政府ならびに日本経団連は、恐らくは半ば意図的にアメリカの
実態を歪曲して伝えているからです。その第一点は、アメリカでのこの制度
は「管理職・基幹事務職・専門職」への「残業手当の適用除外」を定義した
ものであって、「ホワイトカラー・エグゼンプション」とはいっても、全ての
ホワイトカラーが対象ではないという点です。
とにかく管理職・基幹事務職・専門職の必要要件を満たしたケースだけに
適用されるのです。確かに金額で示されている規準だけを見ると、週給
455ドルというのは年収換算で23660ドル(約279万円)と低いのですが、
この金額というのはあくまで一つの要素に過ぎません。その前に、厳しい
規準に示された実態を満たしていなくてはならないのです。
例えば、アメリカの管理職の場合は「二人以上の部下に関する、採用
権限を含む管理監督」を行っているかどうかがポイントになります。
また基幹事務職(総務、経理など)では「非定型業務、自由裁量、自主的
な判断」が主要な業務であるか、更に専門職の場合ですと「明らかな専門
的教育に裏付けられた専門性、もしくは独創的な技能の発揮」という要件が
あります。
こうした要件について、例えば厚生労働省の労働政策審議会の議論など
を見ていますと「アメリカでは金額で切っている」という前提で話が進んでいる
ようなのですが、これは事実の半分も語っていません。
管理職であるか、専門職であるかの「要件」は非常に重視されていて、
この要件を満たしていない場合に「お前はホワイトカラーだから」ということで
残業代の支払いをしないということになると、これは訴訟などで大変なダメージ
を受けるようになっているのです。
第二点は、この「要件」を受けて「エグゼンプト」の労働市場というものが
確立しているという点です。
管理職・専門職で残業のつかない職種の場合は、業種職種によって異なり
ますが、全国的に見て5万ドル弱あたりが最低だと思います。勿論例外は
ありますが、管理職の場合でもいわゆるマネージャー(課長さん)がその
最低クラスになるのですが、基本的にはMBA(経営学修士)を取って
(管理職にはMBAが要求されることが多いのです)の初任給はやはり
6万から7万(あるいはそれ以上)です。
結果で判断される、だから労働は自己裁量という分、まあ納得のできる給与
水準が労働市場として存在しているのです。
第三は、アメリカの労働省のガイドラインにもあるように「専門的な教育を
受けた」という事実などの客観的な根拠が求められているということです。
管理職にはMBA、経理専門職にはCPA(公認会計士資格)、法務部門の
管理職にはバー(司法試験)などの公的な学位ないし資格が要求されます
し、資格がない場合はそれ相応の職歴など、そして専門技術者の場合は
そうした教育を受けたという事実が要求されます。逆に言えば、
履歴書にはなんの根拠もない人間に
「権限を与えているから」という理由で
時間外手当を払わないのはダメと
いうことです。
第四は、「エグゼンプトでない」つまり日本流に言うと「一般職社員」の労働
市場が確立しているという点も重要です。
この一般職は契約上「残業手当がつく」のですが、その代わり「まずほとんど
残業をしない」し「出張も命じない」ことになっています。
命令を受けて定型的業務はするが、その代わり家庭や地域活動との両立な
ど「9時から5時まで」の人間的な生活が保障されているのです。年収として
は2万ドルから5万ドルぐらいでしょう。
この人達は組合と法律によって厳しく保護されており、本人の同意なく残業
を強制することも不可能ですし、まして残業代を払わないということも
不可能です。
勿論、アメリカの労働事情にも深刻な問題があります。一般職の生産性が
国際競争力を失う中で、現時点で言えば自動車産業などを中心にリストラが
進み、実質的に落ち着いた一般職の雇用が減りつつあるという問題がまず
第一点、逆に管理職の場合は成果要求が厳しくなっているために労働時間
がどんどん長くなるという問題があります。
この二番目の問題も深刻で、通勤電車の中でパソコンで仕事をしたり、休日
でもメール端末(「ブラックベリー」など)をピコピコする風景、更にラッシュ
時間が夜の九時台まで続くと、まるで日本のような様相を呈しているのです。
ですが、さすがに残業のつく人と、つかない人のケジメは崩れてはいません。
そして、それは単純な給与ベースでの規準ではないのです。もっと実態のある
裁量性の問題なのです。
こうしたアメリカの労働事情をほとんど伝えないままに、「アメリカで行われ
ているホワイトカラーエグゼンプション」などとカタカナ言葉で煙に巻くのは
不誠実な議論だと思うのです。
日本の場合は、アメリカで厳格に運用されている「要件」について、そも
そも確認のしようがありません。
例えば、個別の管理職に採用権限はありませんし、そもそもホワイトカラー
の場合は企業が大学教育における専門性を評価していないのですから、
教育や資格によって人材の客観的な要件が把握できない体質にあります。
また専門性と責任と職位もバラバラだったり、厳格に管理職や専門職は
定義できないということになります。
最大の問題は裁量性の問題です。日本経団連の資料によれば、日本の
ホワイトカラーは「頭脳労働」だから裁量性がある、とまあもっともらしいこと
が書いてあり、実際にこれまでの裁量労働制などもかなり拡大解釈して
運用されてきています。
ですが、日本のホワイトカラーで現在は残業手当の対象になっている人々
の勤務実態には本当の裁量性はないのです。
顧客からは名指しで問い合わせが来て不在だとクレームになる、突発的
に資料作成を求める指示が入り自分の本来の仕事は後回しになる、他の
同僚が忙しそうにしているので子供の病気でも早退できない・・・更に
言えば、辞令一つで国内どころか海外にまで転勤を強制される、それを
拒めば出世街道から「下りた」とみなされる。こうした非裁量性、それも
激しいまでの「自己決定権の否定」があるのが日本の「ホワイトカラー」です。
とにかく会社にいなくてはいけないし、そうでなくても携帯やメールが追い
かけてくる、しかもほとんどのケースでは即答を求められます。
人間関係を維持しないと仕事が回らない独特の文化のために、そしてやや
過度なまでに即対応の求められる文化のために、一人一人の日本のホ
ワイトカラーは一日のほとんどの時間に関して裁量権のない息苦しさの中
におり、しかも組織の心理的・政治的な「空気」を維持するための儀礼的・
儀式的な会議や出張を強制される中で、絶望的なまでの生産性の低さに甘
んじているのです。
そう申し上げると課長クラスなどの中間管理職も同じではないか、そんな
声も聞こえてきそうです。
ですが中間管理職と「ヒラ」では意識の上で違いがあります。部下のいる
人間は、その部下に対して多少なりとも裁量権を行使することができるので
す。ですが、そうした息苦しいヒエラルキーの最下層の人々には、少なくと
も時間外の業務命令に対しては割り増し手当を受け取ることが人間の尊厳
になっているのです。
実質的に裁量権のない人間の時間外手当を奪うというのは、その人間の
尊厳を奪う、つまり他人の命令に翻弄されながら何の見返りもない、
惨めな存在に貶めることになると言わざるを得ません。
もっと具体的に申し上げましょう。日本のほとんどの「ホワイトカラー」は
退社時刻の5時ないし5時半、(いや職場によっては夜の7時とか8時という
こともあるでしょう)に上司に「この資料をまとめてくれよ。今日中に頼む」と
言われても、断れないのです。
そうしたケースにおいても時間外手当が契約上ないし制度上全く払われ
ないとしたら、その業務命令は代償のない一方的な暴力であり、その
暴力に対する支配は隷従にほかなりません。
そんな社会は文明的な社会では
ないのです。
そう申し上げると、そのような「突発的な命令」にも従うような「モラルの
高い」人間を日本経済は必要としているし、本人も「仕事のやりがい」を
感じていればハッピーなはずだ、そんな声が聞こえてきそうです。で
すが、本当にモラルも能力も高いのなら二十代でもどんどんホンモノの
管理職にして600万とか700万を払うべきですし、モラルだけ高くて能力の
低い人間を命令とマニュアルで管理した上での「生産性」ということでは
全く国際競争力はないと思います。
いや「裁量労働」なのだから、時間外労働の埋め合わせとして代休ないし、
遅出を認めるから大丈夫・・・これも非現実的です。
例えば顧客対応の仕事、会議が重要な要素を占めるチームワークの仕事
など「相手のある仕事」ではフレキシブルな勤務はそうは簡単では
ありません。確かに、現在でも時間外労働に関する支払いは相当の部
分があいまいになっています。いわゆる「サービス残業」でも発覚するのは
氷山の一角でしょう。ですが、実態が払わない方向になっているとしたら、
その実態が問題なのです。
いずれにしても、出生率が下降を辿る中、長時間労働の問題と対決する
ことこそ、日本社会の緊急課題ではないでしょうか。
とにかく日本人は働き方を変えなくて
はならないのです。
労働時間を短縮し、生産性を向上するだけでなく、宴会や出張など広
い意味での拘束時間も見直してゆくべきです。
地方公共団体の裏金が問題になっていますが、そもそも組織の内部での
飲食による親睦などというのはライフスタイルの問題として最低限にする
必要があるはずです。自腹を切らせれば良いのではありません。
徹底的に減らすべきでしょう。
時短をしなくては少子化が進むだけではありません。
そのような総合的時短の中で徹底的に生産性を上げて行かなくては、
最終的にどんどん国際化してゆく労働市場の中で日本のホワイトカラーは
戦って行けないことになるのです。
現在提案されている「エグゼンプション」は労働者個々人だけでなく、日本の
競争力という面からも問題です。ここでいう生産性というのは、企業としての
業務効率だけではありません。
個々人が努力に見合う幸福感を得て、
次世代を育むという意味での生産性
も考慮しなくては社会は続いていき
ません。
この点に関しても、労働時間管理を外したら、より悪い方向へと歯止めが
なくなる危険の方が大きいのです。
例えば「同一賃金同一労働」が叫ばれる背景に、正社員と非正社員の
線引きがあいまいという問題があります。
ですが、これが各職場レベルでは大きな問題になっていない背景には、
暗黙のルールがあるのです。それは「正社員は宴会や儀礼的会議への
出席が義務」であり「社内政治のコマとしての役割を期待される代わりに将来
の管理職候補とされる」という「お約束」です。
こうした企業文化こそ日本のホワイトカラーの生産性を先進国中恐らく最低
の水準に低迷させているのですが、例えば「年収400万円以上は残業手当
なし」というような制度ができれば、この状況を更に固定化するようなことにも
なりかねません。
この問題の大きな背景には「再チャレンジ」政策の一環としての「パートの
正社員化」が絡んでいるようです。
雇用の不安定なパート労働者が増えれば社会が落ち着かなくなる、だから
正社員化をしよう、そこまでは結構な話です。ですが、その結果として人件費
が高騰するのは何としても避けたい、それが産業界のホンネでしょう。
そこをクリアするために、400万以上は残業手当なし、突発命令による時間
外労働にも報酬なし、という制度で埋め合わせをしようとしている、そんな
構図が見て取れます。
何が最大の問題なのでしょう。第二次大戦で焼け野原になった日本経済が
奇跡的な復興をしたのは、将来に希望があったからです。
忙しくても一生懸命やれば自分も会社も社会も良くなる、そうした右肩
上がりの希望が社会にあったからです。確かに現在の日本社会は、全体
としての量的な希望については大きくは望めなくなりました。
ですが、個々人の質的な希望はまだ残っています。
努力をすれば何かが報われる、長生きをすれば少しでも幸福な社会を
実感できる、そんな質的な希望があるから人々は真剣に仕事をし、製造業
中心にまだまだ競争力を保っているのです。
考えてみれば20代から30代という
「400万」の世代は、社会人としての
経験と知識を学びながら、パートナー
を探して家庭を育んでゆく重要な時期
を生きているのです。
そんな人生の時期に、歯止めのない労働時間、しかも時間管理のない中
での一方的な服従の連続に心身を蝕まれてしまえば、人間としての
質的な希望は吹っ飛んでしまいます。
本当の裁量性のない、したがって自分で時間をコントロールできない
ポジションにある人々には、時間外手当という金銭でそのプライドを
埋める、また会社側には歯止めをかける、そんな形で人間の尊厳を認め
てゆくべきです。そうでなくては、質的な希望を抱いた人材が実現してきた
高い生産性の神話は雲散霧消してしまうでしょう。
このままカタカナの「エグゼンプション」という言葉に乗っかり、長時間労働
という今日本が抱えている最も深刻な社会問題について逆行させるような
制度導入がされるのは大変な問題だと思います。
もう一度申し上げますが、アメリカの「ホワイトカラー・エグゼンプション」
は日本で現在検討されている内容とは全く異なる制度です。
「残業のつく人」と「残業のつかない人」を明確に区別するだけでなく、
「残業のつく人」には残業をさせない、「残業のつかない人」には成果を求める
代わりに裁量権を与える、これがアメリカの制度です。
ブッシュ政権によって、経営側に有利な変更はされています。ですが、だ
からといって実質的な裁量権を与えず、
時間のケジメもなく人を使っておいて
残業手当も与えない、そんなムチャ
クチャはそこにはありません。
小泉政権以来の日本には、アメリカ社会の模倣をすることが改革なのだと
いう雰囲気が濃厚にあるようです。裁判員も、ホワイトカラーエグゼンプ
ションもその流れに乗っていると思います。
ですが、裁判員制度は判例の重視による判決の一貫性を(悪い意味で)
破壊する危険がありますし、ホワイトカラーエグゼンプションの問題に至
っては、アメリカの労働慣行や制度を歪曲した挙げ句に、まったく別の
非人間的な提案に変えてしまっていると言えるでしょう。
思えば、この二つの例が実に粗雑な提案であるのは、国会での党議拘束が
多様な選択肢をオープンかつ実務的に協議する環境を奪っているからだ
とも言えるのです。一党支配と官僚制度の中から常に最適解が出てくる
時代は終っているのです。
-------------------------------------
冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家。ニュージャージー州在住。1959年東京生まれ。東京大学文学部、
コロンビア大学大学院(修士)卒。著書に『9・11 あの日からアメリカ人の
心はどう変わったか』『メジャーリーグの愛され方』。訳書に『チャター』が
ある。最新刊『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)
<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061498444/jmm05-22
>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
JMM [Japan Mail Media] No.402 Saturday Edition
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【発行】 有限会社 村上龍事務所
【編集】 村上龍
【発行部数】128,653部
【WEB】 <http://ryumurakami.jmm.co.jp/
>
↑
無料メルマガの申し込みはこちら。