ロシアと清国の歴史から学ぶ
ロシアは、元々ルーシと呼ばれるスカンディナヴィアのノルマン人だ。ルーシ
のリュールク三人兄弟がノヴゴロドやキエフを支配したのが始まり。彼らノル
マン人は、バルト海から黒海、カスピ海を押さえたので、ビザンツとイスラム
商人が毛皮や奴隷を交易する拠点として発展した。
13世紀には、モンゴル軍と仲良くし、チンギス・ハーンの皇女たちと婚姻を
繰り返し、モンゴルに保護されて一気に発展した。ロシア人は「タタールのく
びき」といってモンゴルに支配された時代を悪く言うが、実際は特別扱いされ
て繁栄していたのだ。タタールとは、ロシア人がモンゴル人を呼んだ呼称だ。
1502年、モンゴルが4つに分裂し、大オルドのハーンがクリミア王家に移
る。ロシアはハーンの一族にモスクワ東南に領地を与え、その子孫はモス
コー大公の騎馬軍団となった。
1575年、イヴァン四世は、最後のハーンの曾孫をロシア皇帝にし、翌年彼
から譲位を受けて正式なロシア皇帝になった。これでロシアは正式にモン
ゴルの継承者となったのだ。――――ロシア皇帝は、白いハーンと呼ば
れた。
主にコサック(ロシア語でカザーク=カザフスタンのこと)たちが冬にやってき
て狩りをして毛皮を集めたり、毛皮を買い取ったりして貿易する。その内土着
民から強制的に毛皮を貢納させ、砦・要塞・都市ができるとモスクワの軍政
官が乗り込んでくる。そういう方法でコサックたちは、ウラル山脈を越えて
から、わずか60年でシベリアに進出。1639年には太平洋に達していた。
松花江から黒竜江の流域は「元」も「明」も大切にして、黒竜江口近くのアム
グン川の河口に役所を置いていたが、明が衰えてからそこらは自治区の
ようになっていた。1626年からは八旗という清の軍隊兼住民組織に組み
入れられていた。
1644年、ロシア人が黒龍江(アムール河)にやってきてモンゴル系のダグー
ル人が住む街を焼き、毛皮を手当たり次第略奪した。―――清朝を建てた
満州人は、黒竜江下流の黒水部の黒水靺鞨が南下して女直となり満州人
となった。
だから、いわば親戚を助けるぐらいのつもりでロシアと戦ったけれど負けてし
まった。(1652年)
1654年、ロシアはまたやってきて土着民から毛皮や食糧を奪ったので、清
が住民を南に移動させたため、1656年頃には黒竜江一帯は無人の野と
なった。1656年にはロシアの知事がやってきて黒竜江一帯を支配し、モン
ゴル系の北のブリヤートはロシアに併合された。ブリヤート人はハルハ・モン
ゴルに貢納していたモンゴル系の部族だった。南のハルハ・モンゴルは
清国の支配下に入った。1658年、清国はロシア軍を追い払うことができた。
1660年代後半、 ロシア人は黒竜江一帯にどんどん移住してきて開拓をは
じめ、1680年代当初にはロシア人人口が数百名に増加し、その農地は1千
ヘクタールにもなり、、次には黒竜江支流のゼーヤ川流域を開拓しだした。
1681年、清国はロシアに抗議し、1683年から6年戦争が始まり、今度
も清国が勝った。
1689年、ネルチンスク条約が結ばれ、ロシアと清の国境が確定された。
清の朝廷は、漢人の支配者であり、満州人の八旗連合の議長であり、
チベット仏教の大施主であり、イスラム教徒の保護者であった。種族ごとに
使用言語が異なり、別々の法典が適応された。政治に関する話合いは
満州語で行われた。
5つの民族が、清朝をまとめ役として結構うまくまとまっていたようだ。
● 清国の間違いは、国民がアヘンを吸ったこと 。
1729年、アヘン禁止令をだしても国民はアヘンを吸い続けた。1838年
には、4百万人がアヘン中毒になっていた。100人に1人が中毒者だった。
清が広州の阿片商人の荷を二万箱処分すると、1840年、イギリスが
清国を攻撃。1841年、清国はこの阿片戦争でイギリスに負けた。
日本は鎖国中だったが、清国がイギリスに負けたことは外国人から聞いて
いて、しっかり知っていた。
ロシアは、清が阿片戦争をしている間に北米(アラスカ)にまで進出。
また樺太や黒竜江以北を再び手に入れようとし、1850年にはちゃっかり
黒竜江以北に居座ったが、清は太平天国の乱で忙しく、それを黙認せざるを
得なかった。
1853年、ペリーの黒船が江戸にやってきた。ロシアも長崎にやってきた。
1854年、日本とロシアは、千島列島と樺太の領有権について話し合った。
1857年には、ロシアはアムール州と沿海州を勝手に設置した。
1857年、アロー号事件がおこり、第二次阿片戦争が始まる。
1858年、清国は英仏米露と天津条約を結ぶ。
ロシアは、軍艦から砲を乱射して威嚇し、黒竜江以北とウスリー川以東を
ロシア領にしないと満州人を殺すと脅迫。清国からいろいろな特権と治外
法権を得た。(愛琿条約)
1859年、条約を無視してイギリス軍艦に砲撃を浴びせた清国にイギリスが
カツを入れるため、1860年、北京の円明園を破壊した。そしてロシアが、
英仏と講和を結ぶ仲介をしてくれた見返りに、清国はロシアにウスリー川
東岸から日本海にいたる領土を割譲した。(北京条約)
ロシアは日本に、樺太はロシア領だと主張するが幕府は否定する。
● 清国の間違いは、自分の国と外国の差を知らず、条約をことごとく破って
戦争に負けた後も、イギリスの船に攻撃をしかけたこと。完全にウソつきの国
として西洋に軽蔑された。
1861年、ロシアの軍艦が対馬にやってきて、国旗を立てて居座るも、半年
後にイギリスが追い払ってくれた。
明治維新の後、1875年に日本は、ロシアの樺太領有を認める代わりに千島
列島18島を全部日本領と承認させた。
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1871年、ロシアはウラジヴォストークに海軍基地を建設。東方を支配せよ
という意味の名前だそうだ。大連は、ダールニーヴォストークというロシアの
街だった。大連はダールニーの当て字。
その後ロシアは、日清戦争に日本が勝利して清国から日本に割譲される
予定の遼東半島を、フランスやドイツと共謀して脅し(三国干渉)、日本に
諦めさせたお礼として、清国から満州での鉄道敷設権を獲得、旅順、大連も
租借。
清国はようやく国を近代化させないと西洋に敵わないと悟り、日本に留学生を
送り出すようになる。ロシアはどんどん鉄道を延ばし、しまいには朝鮮半島に
もつなげようとした。ロシアは朝鮮内部の親露派を利用して釜山まで鉄道を延
ばそうとしていた。
ロシアは、1897年夏にはハルピンから大連までの鉄道敷設を開始した。
「支那人」たちが怒って義和団運動が始まったが「願ってもない好機だ、これ
で満州を押さえる口実ができた」とロシアの陸軍大臣クロパトキンは喜んだそ
うだ。
ロシアは、1900年には全満州を制圧した。同じ年、義和団は山東から天津
・北京に入って外国人を襲い、清国のキリスト教徒や外国の商品を売ってい
る商店を壊し、鉄道や電線を破壊した。清国政府は義和団を認めて列国の
公使館を包囲した。
● 清国の間違いは、外国との条約を守れず、ウソばかりついて外国人や
公使館を襲ったこと。在住外国人を殺したり、公使館を壊してただで済むと
思ってはいけない。
義和団事件の時にロシアは、派兵をしながら何もせず、ロシア軍をただ
満州に居座らせた。(逆に、日本公使館を守備していた日本軍人はよく戦い
イギリスから好意を持たれた。後に日英同盟を結ぶ遠因ともなった)
1903年には、ロシアは朝鮮の龍岩浦を租借し、鴨緑江を越えて森林の
伐採事業を始めた。
ロシアの南下を恐れる日本は文句を言うがロシアは無視。満州南部に
軍隊を集結。
1904年、日本は再度ロシアに警告。ロシアは再び無視し極東に兵力を集結
させる。そしてロシア艦隊は旅順から出港、日露戦争が勃発する。
●ロシアは、ずっと領土を広げようと、どんどん南下してきていた。
日本がロシアを恐れたのは当然だ。対馬を占領しようとした過去もある。
2006年の現代では、日本の北方領土を占領しているし、カラフトも
手に入れている。太平洋戦争が終わって見れば、ソ連は大きく自国の
領土を増やしたし、日本の領土を侵略したまま、返還しようともしない。
清は日露戦争の時は、自分たちの祖先発祥の地での戦争なのに、
中立宣言を出して他人事のように知らんぷりをきめこんだ。
(逆に、ロシアと密かに協定を結んでいたらしい。)
● 清国の間違いはロシアを頼ったことだ。
日本は、鎖国をしていたときから外国の情報を聞き、清国がアヘン戦争で
西洋にやられている様子を知っていた。アメリカに開国するよう迫られた時は、
すばやくそれまでの政治制度を改め、近代化に向けて必死に努力した。
日本は、国がまだ弱いうちは戦争を控えた。
1905年、日本が日露戦争に勝ったあと、戦況の実情を知らない日本国民は
ロシアと講和する時期が早過ぎた=もっと勝ち進んでからのほうが条件有利)
として、講和条約反対集会の後、アメリカ大使館を襲撃し、教会13ヶ所を焼
いた。これでアメリカの親日意識はガラッと反日に変化したのだ。
――― 結論:
西洋と付き合うときは条約を守ろう。ウソつきと思われ、軽蔑されるのは何か
と損である。(ロシアはよくウソをつくので西洋に入れていいのかどうか疑問)
自国内の外国人を殺したり、大使館や教会を壊すな。日本人は過去に学ん
で、西洋に嫌われないようにしよう。日本の存続のために、古くて役に立た
ないシステムは潔く捨てよう。
良く外国の情報を調べて、日本の動きを決める参考にしよう。
日本は、日露戦争で11万8千人の戦死者を出した。日本人は満州は12万人
の日本人の尊い命で購[あがな]われた土地だと思った。しかし支那人は、
満州の土地は満州人の土地というより支那人の土地だと思ったし、そう外国
に宣伝もした。
そして日本はアメリカと戦争になり負けた。西洋からどう思われるかが、未来
を決めるのだと思う。日本は、これからは国際社会の中で、常に良い立場で
いられるよう心がけ、支那の宣伝活動に気をつけること。自国内の
反日メディアと反日団体の後ろにいる連中に気をつけること。
アメリカ大好人間でいるのもアメリカ嫌いでいるのも、日本の国益に反する。
日本人は日本の存続を考えて行動するべきである。民間人でも、外国人に
日本の立場を説明できるぐらいに知識を持たなければいけない。アメリカと
戦争になった理由ぐらいは、キチンと歴史を知っておこう。
戦争に負けて61年経っても、資源の無い日本は、外国と仲良くして商売して
繁栄していかねばならない宿命なのだ。繁栄とは、自然を壊すことや、一部
の人だけ金持ちで、大部分が貧乏なままということではない。国の金をネコ
ババして外国に貯めることではない。軍事費に金をつぎ込んで貧乏になる
ことでもない。
日本人全員が賢くなることが大事なんだと思う。
北朝鮮は、核を飛ばす決定権が独裁者の手の中にある、という不安定な国
である。極東アジアが不安定だということは、欧米のアジアのイメージが
よろしくない。北朝鮮の親分である支那は、子分である北朝鮮の安定を図ら
ねばならない。
日本は支那に、反日教育を行って日本の在外公館を壊し、欧米のアジアに
対するイメージを悪くしている場合ではないということを教えるべきだ。
北朝鮮をちゃんと躾けるように文句を言うべきだ。
核兵器を持たない日本には、北朝鮮を威圧して無力化させることはできない。
一発でも東京に核ミサイルを撃ち込まれると、日本はとてつもないダメージを
受ける。
平和でなければ、アジアの繁栄はないし、いつまでも欧米にウソつきだと軽蔑
されては損である。
参考資料:宮崎淳子著「世界史の満州帝国」PHP研究所