満州で迎えた終戦ーある日本人女性の記録
武装解除は二十五日。男たちは小銃、拳銃、刀剣、弾丸を集めて大車に
積み、平陽鎮警察署へ運んで行った。
その日、留守の本部を守っていた少年二人が襲撃され、瀕死の重傷を
負ったが、手当ても出来ないまま、後日亡くなった。
その日から毎日、ソ連兵と満州国軍の兵隊が入れ替わり立ち替わり、
その日から毎日、ソ連兵と満州国軍の兵隊が入れ替わり立ち替わり、
威嚇射撃しながら私たちの宿舎へ乱入して来た。
そして手当たり次第に略奪し、女を漁った。私たちは髪はざん切り、顔には
かまどの煤を塗りたくり、娘さんにも子どもを負わせて、かたまっていた。
ソ連兵に狙われると、逃げる女の三倍ほどの大股で、ベルトをはずしな
がら追われるのだった。男は一か所に集められて閉じ込められていた。
夜は、現地人が襲って来た。
九月になったある日、いつものように入って来た満州国軍の兵隊に、私たち
夜は、現地人が襲って来た。
九月になったある日、いつものように入って来た満州国軍の兵隊に、私たち
の宿舎のどこかに一つ、置き忘れられていた薬莢が見つけられた。
そのとき、応対した山田先生(山田指導員の夫人で、教員だった)が
撃ち殺された。「坊やを頼む」と、一言残されて。坊やは三歳だった。
その夜の襲撃で衣服は剥ぎ取られ、無残な姿が放り出されていた。
私たちは、昼はソ連兵や満州国軍兵から身を隠すため、野菜を貯蔵
その夜の襲撃で衣服は剥ぎ取られ、無残な姿が放り出されていた。
私たちは、昼はソ連兵や満州国軍兵から身を隠すため、野菜を貯蔵
する穴蔵に潜み、夜は現地人の襲撃に対し、手製の槍を持って警備に
臨んだ。が、「ワァーッ」と喚声をあげて襲って来ると、私は槍を投げ出し、
子どもを預けている方へ走り、子どもを負うて逃げた。
逃げる所は、いつも高粱が林のように伸びている畑である。
みんな同じ方向へ逃げた。それを目がけて弾丸が飛んで来る。
一緒に逃げている傍の人が倒れた。
もうどうにでもなれ、と思う私には当たらなかった。
一番鶏が鳴くころ、彼らは、略奪した物を大車に積んで引揚げて行く。
一番鶏が鳴くころ、彼らは、略奪した物を大車に積んで引揚げて行く。
毎日毎夜、その繰り返しで、人は殺された。
宿舎は全部焼かれ、学校にも火は放たれた。
宿舎は全部焼かれ、学校にも火は放たれた。
校舎には石油が撒かれていたので、火勢は烈しかった。
その天井裏には、怪我人や病人が匿われていた。「うちの人が、
うちの人が」。燃えさかる学校に向かって、叫んでいる人がいた。
血まみれになって逃げて来た人に、私は非常袋から手拭いを
血まみれになって逃げて来た人に、私は非常袋から手拭いを
取り出して、その腕に巻いた。
私の防寒服はその人の血で染まり、逃げるとき、鉄線に引っかけた
ズボンは破れ、そのまま着のみ着のままになった。
その夜が明けて、入る家はなく食糧は奪われ尽くし、殺された人を
その夜が明けて、入る家はなく食糧は奪われ尽くし、殺された人を
集めて土をかぶせ、呆然と立ち竦んだ。興亜開拓団の最後だった。
男たちが、長年かかって開拓した大地。
男たちが、長年かかって開拓した大地。
その男たちは、今そこにはいず。残して行った子どもを負うて、その地を
去らなければならない口惜しさ。
私たちは、まだ燻っている興亜開拓団を見返り見返り、おいおい泣きながら、
とぼとぼと枯野を歩いていた。
北満の十月半ばといえば、もう零下の真冬だった。
それから三十八年後の、昭和五十八年。
現地慰霊の旅に誘われた。
「ここが興亜神社の跡です。」導かれた畑の中で、鳥居だったと思われる、
それから三十八年後の、昭和五十八年。
現地慰霊の旅に誘われた。
「ここが興亜神社の跡です。」導かれた畑の中で、鳥居だったと思われる、
この辺では見かけられない御影石の破片を見つけた。
そしてその辺りの水路の積み石は、学校の礎石だったという。
「この水田も水路も、土台は俺らがやったんや」
誰かが呟いた。もうそれは忘れよう。死んで行った我が子や仲間たちは、
「この水田も水路も、土台は俺らがやったんや」
誰かが呟いた。もうそれは忘れよう。死んで行った我が子や仲間たちは、
この豊かな土になっている。そして今は現地の人の豊かな生活があった。http://hannichi.seesaa.net/article/26867815.html#comment