あの時の支那の情勢
以前もこのサイトは紹介しましたが、チャイナからこのサイトは
開けて見ることができないそうなので、ここにコピーして紹介しておきます。
盧溝橋事件の発生の前後、支那の情勢はきわめて不安定で反日デモ、
反日テロが横行していた。
1935年5月 親名天津で殺害される
8月 満州から天津に向けた国際列車襲撃、乗客約20人
殺害される
11月 中山海軍准尉上海国際租界で射殺される
12月 在天津日本軍守備隊総司令官多田陸軍中将宅に爆弾、
中国人召使い負傷
上海・漢口での大規模反日デモ
上海の日本海軍本部公館に爆弾
1936年1月 天津付近で2件の日本人商店が中国正規軍により
掠奪される
南京3000人の反日デモ
仙頭で2000人の反日デモ
仙頭で日本領事館勤務日本人警官射殺される
広東の中国警察と税関警備兵が36カ所の中国人事務所を
襲い、日本商品を没収
6月 北京近くで日本兵が中国軍正規軍兵士により、重傷を負う。
山東省で日本人1人射殺さる
7月 天津の日本総領事館勤務の警官2名銃撃され、1名死亡、
1名重傷
三井物産上海支店日本人社員射殺される
8月 天津の日本語学校襲撃され、日本人教師
拉致される
成都で1万人の暴徒に襲われ、新聞社特派員3人殺害、
一般人2名重傷
9月 漢口の日本領事館の警官が射殺される
上海で日本海軍兵1名射殺、2名重傷
湖南省で日本の汽船会社事務所放火される
長沙の日本総領事館に爆弾
広東省で日本人薬局経営者が惨殺される
10月 青島の紡績工場反日ストで2週間操業停止
11月 日本人船乗り、上海で射殺される
1937年2月 漢口で日本人事業家の妻が中国人に襲われた
3月 広西省ですべての日本人追放
5月 仙頭の日本領事館勤務の警官に対する暴行
大連沖で2隻の日本漁船に対して、中国税関警備兵による
発砲
6月 天津付近の日本人農場襲撃、放火
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/chuugoku/chinawar.html
引用
1900年の義和団事件鎮圧後の北京議定書により日本軍の
支那駐留は米英仏伊など各国とともに認められ、40年近く駐留は
継続されていた。
日本居留民は反日テロに脅かされ、支那駐留軍が反日テロに
緊迫しいらだっていた。
1936年12月12日
西安事件
中国共産党討伐を続けていた蒋介石が西安の張学良を督戦に訪れた際、
共産党に傾倒した張学良、楊虎城に拉致監禁された事件。
この後、共産党と国民党の協定により中共が国民党の傘下に入る形で
国共合作がなる。
ソ連の元で人質状態になっていた蒋介石の長男蒋経国の帰国が
許される。
蒋介石国府軍が日本と戦争を開始出来る条件が整った事になる。
共産シナHKは西安事件によりソヴィエト
コミンテルン、中国共産党の
発言権が大きくなった事実をスルー、
どうあっても共産党が支那事変への関与していたことを隠したいらしい。
盧溝橋事件
1937年
7月7日
* 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・
支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より
複数発の銃撃を行う。
同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。
事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の
一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也
連隊長に伝達される。
* 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、
伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり)
7月8日
<現地の動き>
* 3時25分:竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、
中国軍陣地に近づき過ぎて発砲を受けた、と見られている。
* 4時00分:日中合同調査団が、北京を出発した。
メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・
寺平忠輔補佐官、他に通訳二名・一個分隊の護衛兵、中国側は
王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5
時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城(盧溝橋城)内に
入り、中国側と交渉を開始した。
* 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。
これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。大隊長はこれを受けて歩兵砲の
砲撃を命令。
しかし、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐の命令によって、砲撃は
いったん中止された。
* 5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し
国府軍は激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突
となった。
* 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、15時30分頃に
戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて
推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。
中国共産党、第29軍擁護と即時開戦を促す声明を発表。
<中央の動き>
* 早朝、事件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。
以降中央では、これを機に中国に「一撃」を加えて事態の解決を図ろうとする
拡大派、対ソ軍備を優先しようとする不拡大派のせめぎあいが続く。
* 18時42分:参謀本部より支那派遣軍司令官宛、「事件の拡大を防止
する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と、不拡大を
指示する総長電が発せられる。
これは、参謀本部の実質的な責任者であった、石原莞爾
少将のリードによるものであった。
7月9日
<現地の動き>
* 2時00分頃:「とりあえず日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は
西岸」へ、との日本側の「兵力引き離し」提案を中国側が呑む形で、
停戦協議が成立。
撤退予定時刻は当初5時00分であったが、中国側内部の連絡の不備
からその後も戦闘が散発し、最終的な撤退完了は12時20分頃まで
ずれ込んだ。
<中央の動き>
* 8時50分頃:臨時閣議。陸相より三個師団派遣等の提案が
行なわれたが、米内海相などの反対により見送りとなった。
* 夜:参謀本部より支那駐屯軍参謀長宛、「中国軍の盧溝橋付近からの
撤退」「将来の保障」「直接責任者の処罰」「中国側の謝罪」を対支折衝の
方針とするよう通達する電文が、次長名をもって発せられる。
7月10日
<現地の動き>
前日の次長電を受けた形で、橋本群参謀長は中国側に対して、
「謝罪」「責任者の処罰」「盧溝橋付近からの撤退」「抗日団体の取締」を
骨子とする要求を提出。以降、この内容を軸に、交渉が継続される。
蒋介石国府軍の北上の動きを見せる
200人以上の支那兵が迫撃砲で攻撃再開。
<中央の動き>
午前:参謀本部第三課と第二部が、「支那駐屯軍の自衛」「居留民
保護」を理由とする派兵提案を含む情勢判断を提出。
参謀本部内にも異論はあったが、最終的には石原少将も同意、
案は陸軍省に送付された。「国民党中央軍の北上」「現地情勢の緊迫」
の報が実態以上に過大に伝えられたことが、派兵の決定に
大きな影響を与えた、と言われる。
7月11日
<現地の動き>
* 20時00分:「責任者の処分」「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤退」
「抗日団体の取締」を骨子とする現地停戦協定が成立した
(松井-秦徳純協定)。
秦徳純は従来になく強硬であって、宛平県城からの撤退を断然拒否した。
最終的に日本側が折れ、松井久太郎、和知鷹二、中国側委員張自忠、
張允榮の間で下記条文に調印をすませた。
これは日本側からみれば、相当寛大なもので、謝罪の方式も定めず、
責任者も特定の人物を指定することなく宋哲元の自由裁量にまかせ、
また盧溝橋の日本軍も自発的に撤退することを約したものであった。
盧溝橋事件現地協定(松井・秦徳純停戦協定)
1. 第二九軍代表ハ目本軍二対シ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ
将来責任ヲ以テ再ヒ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス
2. 中国軍ハ豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ
盧溝橋城廓及龍王廟二軍ヲ駐メス保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス
3. 本事件ハ所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体ノ指導二胚胎スル
コト多キニ鑑ミ将来之カ対策ヲナシ且ツ取締ヲ徹底ス
以上各項ハ悉ク之ヲ承諾ス
注意すべきなのは、この停戦協定に
藍衣社と共産党の名前があげられて
いることで、当時、犯人が誰か
共通認識があった。
<中央の動き>
* 11時30分:五相会議にて、東條陸相の、「威力の顕示」による
「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした内地三個師団派兵等の
提案が合意された。
* 14時00分:臨時閣議にて、北支派兵が承認された。
* 16時20分:近衛首相は葉山御用邸に伺侯、北支派兵に関し上奏
御裁可を仰いだ。
* 18時24分:「北支派兵に関する政府声明」により、北支派兵を発表。
* 21時00分:近衛首相は政財界有力者、新聞・通信関係者代表らを
首相官邸に集め、国内世論統一のため協力を要請。以降、
有力紙の論調は、「強硬論」が主流となる。
(wikipediaより修正あり)
しかし、近衛首相の派兵決定と現地での停戦協定に行き違いがあった事に
より2日後に撤回実際の派兵は関東軍・朝鮮軍に制限される。
昭和12年7月13日 北平(北京)大紅門で日本軍トラック
が爆破され
日本兵4人死亡。
昭和12年7月14日 団河で支那兵の襲撃により日本兵1人死亡。
昭和12年7月20日 盧溝橋城の支那兵より日本兵に対し一斉射撃。
皇軍は演習の為に実弾を所持していなかった。
実弾ももっていない兵を用いて戦争を吹っかけるバカがどこに
いるだろうか?
7月7日に慮溝橋事件が起きてから、実に3週間にわたって日本側は
必死に不拡大方針をとったのに対して、南京政府は
2日後の7月9日には動員令を
出している。 19日までに30個師団集結。
当時の日本軍兵力5600人、
支那国民党軍兵力15万3000人
戦争をするに際して国民党側に圧倒的有利な状況だった。
ファルケンハウゼンの作戦計画
1933年独国防軍の父フォン・ゼークトが蒋介石国府軍の軍事顧問を
務める
第一次上海事変の休戦協定に違反し対日塹壕トーチカ線
ゼークト線が建設される
1936年中独間にハプロ条約が締結
1 ドイツ軍事顧問団のほかに顧問団本部を設け、そこに現役将校を
派遣する。
2 6個師団からなる10万人のエリート
軍を建設
それを早急に30万人に引き上げる。6個師団に見合って6個の師管区を
設け、そこに軍需産業のコンビナートをつくる。
3 中国にたいする緊急武器輸出として4隻の高速魚雷艇を供与する。
そして50隻まで増強する。沿岸警備用に15センチ砲台を建設する。
機雷設備を供与する。
4 中国人学生をドイツに派遣し、機械技術者として養成する。
ハプロ条約は親中路線をとる国防相ボロムベルグと軍務局長(参謀総長)
ライヘナウの案で結ばれたもの、ドイツ経済界軍需
産業界にとって重要且つ有益な内容だった。
蒋介石は抗日戦争の作戦計画を独軍事顧問フォルケンハウゼンに発注、
フォルケンハウゼンは日本の支那駐屯軍、上海海兵部隊を挑発し、
ゼークト線におびき寄せ塹壕消耗戦に持ち込むというものだった。
日独、中独の複雑な外交関係
ドイツ国防軍及び外務省は1928年以来中国と親密な関係にあった。
1936年4月国防軍ライヘナウ将軍の尽力によりハプロ条約が締結
された事により、ドイツの中独は蜜月状態に入る。
ドイツの軍需物資、軍事援助の流入に懸念を抱いた日本政府は独中関係に
楔を入れる為にヒトラー と外務省と対立するリベントロップに接近し、
日独防共協定を締結する。
協定締結後もヒトラーの経済界への遠慮から中国への武器輸出は
続けられたが1838年軍事顧問団の引き上げと同時に停止。
南京事件の際、多くの親中反日ドイツ人が日本の暴虐無道ぶりを
ヒトラーに報告している背景にはドイツ国内の親中派と親日派の
せめぎ合いやジーメンス社のラーベのような産業界の利権構造
があった。
佐藤尚武の宥和外交
1937年3月林内閣のもと佐藤尚武が外相に就任した。
佐藤は中国国内で居留民が殺害される事件の多発を憂慮し
満州事変以来の対華強硬方針を改める方針に転じた。
「再認識論」というもので中国と一定の距離を置きながら対等外交を
進めるというものだった。佐藤は広田弘毅の一期先輩で欧米派の
外交官である。
ところが蒋介石は前年の綏遠事変や西安事件により権力基盤を
固めており、この佐藤の宥和外交を日本の弱さと受け取った。
蒋の上海に執着する姿勢は生涯変わらず、ファルケンハウゼンの
案出した戦争計画にのめり込んでいった。
佐藤尚武の平和演説
欧州政情に関して、(中略)欧州には果たして戦争が勃発するような
危機が、其処に存在しておるのかどうなのかということにつきましては、
私はあるいは楽観論者であるかもしれませぬが、(中略)私は多大の
疑問をもっております。
私は帝国の対支根本政策については別段変更の要を認めている者では
ありません。
(中略)私は日本国のような国柄は、出来るだけ国民を落ち着けて、この焦燥
気分をなくすということが最も必要なことと思います。
(中略)本当の意味の危機、つまり戦争の勃発という意味の危機、
日本がこれに直面するのも、しないのも、私は日本自体の考えいかんに
よって決まるのであるという風に考えるのであります。
(中略)日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けて生きたいと
いう気持ちであるならば、私は日本の考え一つでその危機はいつでも
避け得ると確信いたします。
佐藤は蒋介石に日本軍は戦争継続能力を持っていないという間違った
メッセージを送ってしまった。
チェンバレンがヒトラーに行った宥和外交と同じ。
相手が戦争する気が満々なのに平和を語ったり、妥協した所で
平和がもたらされるわけが無い。
ドイツによる武器輸出、ドイツ軍事
顧問団、ドイツ式の兵制、装備、
上海周辺の堅牢な陣地構築、
蒋介石軍(国府軍)の兵員動員。
要するに、全ての状況証拠、物的
証拠が蒋介石国民党の方こそ日本
との戦争をする気が満々だったと
言わざるを得ない。
満州事変も支那事変も軍事によって、親日政権を樹立し秩序を構築しようと
したという本質においては、アメリカのベトナム戦争やアフガニスタン、
イラク戦争と同じ防疫戦争自衛戦争対テロ戦争とも言える。
戦後、日本の外交戦略が無いとしきりに言われるが、アメリカも
ええかげん外交的に首尾一貫してないし失敗してると思うんだけど。
中国の共産化、朝鮮で無駄な戦争をする。冷戦核軍拡、
ベトナム戦争、キューバ 危機、イラン革命、湾岸戦争、
ソマリア内戦、アフガニスタン戦争、イラク戦争。
ソ連が崩壊したのは、自滅的なものだったんだけど、アメリカが成功した
外交ってあるんだろうか?
重要な違いは戦勝国か敗戦国かという事だろうね。
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