スパイ ゾルゲってだれ? | 日本のお姉さん

スパイ ゾルゲってだれ?

リヒャルト・ゾルゲ

Richard Sorge 1895年 10月4日 - 1944年 11月7日 )は

1933年ドイツ新聞記者 の肩書きで日本に潜入した

ソビエトスパイ であり、ソビエト連邦では偉大な英雄 とされている。

戦前の日本 を舞台にスパイ活動を行い特高警察に検挙される。


リヒャルト・ゾルゲは、旧ソ連の国際的スパイ。

ドイツのジャーナリストという肩書きを利用して

ドイツと日本の政治・軍事の最高機密を
約8年に渡ってソビエト政府に漏洩した。


普段は20人もの女性と同時に付き合ってバイクに乗って

楽しく過ごしていたらしい。

日本の2・26事件をクールな目で世界に報道した。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/226.htm

スパイになるまで

鉱山技師のヴィルヘルムとロシア 人ニナとの間にゾルゲは

九人兄弟の一人としてソ連邦・アゼルバイジャン共和国の首都・

バクー で生まれる。彼のおじはカール・マルクス の秘書であった。

3歳の時に家族とともにベルリン に移住。

1914年 10月に、第一次世界大戦ドイツ陸軍 に志願。

負傷し入院中に社会主義 思想を知る。1919年ハンブルク大学

最優秀の評価を得て、政治学の博士号 を取り、ドイツ共産党 へ入党。

1924年 には党活動が評価され、コミンテルン 本部にスカウトされ、

モスクワ へ赴く。さらに赤軍の軍事諜報機関である参謀本部第4局

後のGRU )に転属された。

スパイ活動開始

ゾルゲは1930年 にドイツの新聞 社「フランクフルター・ツァイトゥング 」紙の

特派員という隠れ蓑を与えられ上海 に派遣される。

上海では、仕事を通じて当時、毛沢東 に同行取材するなど中国 で活躍して

いたアメリカ 人ジャーナリストのアグネス・スメドレー や、朝日新聞 記者

だった尾崎秀実 と知り合う。


1932年 1月には日中両軍の上海市街戦(上海事変 )を報道した。

同年12月にモスクワに戻る。1933年 9月6日 に「フランクフルター・ツァイ

トゥング」紙の東京特派員として日本へ赴き、横浜 に居を構える。


目的は、日本やドイツの動きをソ連に報告することであった。

日本潜入

上海時代に知り合った近衛文麿 内閣のブレーンで、この頃は

南満州鉄道 会社の嘱託職員をしていた尾崎秀実 や、フランス

アヴァス通信社(現在のAFP 通信社)の特派員で、ゾルゲの特派員仲間

でもあったユーゴスラビア 人のブランコ・ド・ヴーケリッチ。

元老西園寺公望 の孫で、尾崎と同じく近衛内閣のブレーンの一人であった

西園寺公一 (さいおんじきんかず)。

洋画家で、アメリカ共産党 員の宮城与徳

ドイツ人技師のマックス・クラウゼンとその妻アンナ・クラウゼンらを中心メ

ンバーとするスパイ網を日本国内に構築し、スパイ活動を開始する。

対独戦への貢献

当時の日本におけるドイツ人社会で、日本通かつ熱烈なナチ 党員とし

て知られるようになっていたゾルゲは、大使館付武官 から駐日ドイツ

大使 に出世したオイゲン・オット(Eugen Ott )の信頼を勝ち取り、最終的には

大使の私設情報官という機密情報に近づき易い地位を得た。


ゾルゲは立場を利用して、ドイツによるソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦 」の

正確な開始日時(1941年 6月22日開戦)を含めた詳細な情報を事前に入手

したが、ゾルゲを二重スパイではないかと疑っていたヨセフ・スターリン

報告を無視、結果ソ連は緒戦で大敗してしまい、首都モスクワ まで数十

キロに迫られるという苦境に陥ってしまう。


近衛内閣のブレーンで政権中枢や軍内部に情報網を持つ尾崎は、日本軍

の矛先が同盟国のドイツが求めるソ連へ向かうのか、仏印 や英領マレー

フィリピン などの南方へ向かうのかを情報収集した。


日本軍部は、独ソ戦 開戦に先立つ1941年4月30日に日ソ中立条約 が締結

されていた上、南方資源確保の意味もあってソ連への侵攻には消極的で

あったといわれている。


1941年9月6日に行われた御前会議 で日本軍は、南方のイギリスフランス

植民地 及びアメリカ への侵攻を軸とする「帝国国策遂行要領 」を決定した。


この情報を尾崎を介して入手することが出来たゾルゲは、それを直ちに

ソ連本国へ伝えた。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するために

ソ満国境に配備した兵力をヨーロッパ方面へ移動させ、モスクワ前面の

攻防戦(独軍側の秘匿名称:「タイフーン作戦」)でドイツ軍を押し返すことに

成功し、最終的に1945年 5月に独ソ戦に勝利する。


情報は、クーリエ を使って秘密裏にソ連へ送られていただけではなく、

クラウゼンが無線機を使いウラジオストックにある中継地に向けて送信

していた。

特高 は早いうちから怪しい無線電波 が東京市内(当時東京は であった)より

ソ連や中国方面に向けて送信されていることを知っていたが、クラウゼン

は送信機を自動車に積み込み、発信場所をこまめに変更していた上、

暗号自体を解読することが出来なかったため、一味が逮捕 されるまで発信

源を掴む事は出来なかった。

一斉逮捕

大東亜戦争太平洋戦争 )開戦直前の1941年 10月に、ゾルゲや尾崎らの

グループはスパイ容疑で警視庁 特高一課と同外事課によって一斉に

逮捕 された。

軍事情報のスパイ事件は陸軍憲兵隊の管轄であるが、コミンテルン

のスパイとして特高警察が取り扱った


逮捕されるまでの経緯は、まず1941年6月に日本共産党 員であった伊藤律

逮捕され、アメリカ共産党員で当時日本に住んでいた北林トモの名を自供、

さらに北林がアメリカ共産党の同志、宮城の名を自供したことがきっかけ

であったと言われているがこの経緯の詳細については様々な説がある。


グループの逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員 かつ汪兆銘南京国民政府

の顧問も勤める犬養健 、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信

社の同僚であったフランス人記者のロベール・ギラン など数百人の関係者

も参考人として取調べを受けたが、ゾルゲが当時の同盟国であるドイツ人

でありしかもオットー大使と親しいことや、前年にイギリス のスパイの疑惑で

逮捕された英国・ロイター 通信社の特派員のM・J・コックスが特高による取調

べ中に飛び降り自殺したこともあり、特に外国人に対する取調べは慎重に

行われたという。

また、ゾルゲの個人的な友人でありゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官

という地位まで与えていたオットー大使はゾルゲが逮捕された直後から、

友邦国民に対する不当逮捕だとして様々な外交 ルートを使ってゾルゲを

釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。

しかし、逮捕されてまもなくゾルゲに特別面会を許されて本人からソ連の

スパイであることを聞き知り、立場を失ったオットーはその後大使を解任され、

戦争終結までを北京で過ごした。

処刑

その後ゾルゲらは1942年国防保安法治安維持法 違反などにより

起訴され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半・執行猶予2年

(西園寺)から死刑(ゾルゲ、尾崎)までの判決が言い渡された。

ゾルゲや尾崎らは巣鴨拘置所 (戦後、GHQ により巣鴨プリズンになる)に

拘留され、日本、ドイツ両国の敗色が濃厚となってきた1944年 11月7日の

ロシア革命記念日に死刑 が執行された。

1945年 1月にはヴーケリッチも北海道 の網走刑務所で獄死したが、

マックス・クラウゼンは戦後夫婦ともども連合軍によって釈放され、生きて

故郷の東ドイツ に戻ることができた。

ソ連邦英雄

ゾルゲが逮捕されて以降、ゾルゲがソ連のスパイであることを自供した

ものの、ソ連政府はかたくなにゾルゲが自国のスパイであることを否定し、

その後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。

しかしその後、反スターリン路線を掲げるニキータ・フルシチョフ がソ連の

指導者として君臨していた1964年 に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が

授与され、死後20年を経て、その功績が認知された。

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やはりソ連はろくでもない国だった。

一部の日本共産党も日本を売って外国に情報を漏らしていたのだ。

国を売るなど、まったくろくでもないヤツラだ。

ゾルゲの情報のおかげでドイツがソ連に負けて早く滅びたようなものだから

アメリカにとっては「なかなか良くやった人物だ。」となるのかもしれない。