憲兵准尉だった上村喜頼氏は33年間も支那の共産党の獄中にあった。 | 日本のお姉さん

憲兵准尉だった上村喜頼氏は33年間も支那の共産党の獄中にあった。

「徳をもって怨みに報いる」中華民国BC級戦犯裁判
中華民国の戦犯裁判は昭和21年4月から24年1月までの間に、北京、

広東、台北、南京、漢口、徐州、済南、太原、上海、瀋陽の10個所で

行われた。
883人が裁かれ504人が有罪判決、149人が死刑となった。

しかし裁判とは名目のみで、日本人被告に有利な証言は黙殺され、

被告の反論も相手にされなかった。人違いやえん罪、こじつけ、身代金

要求、最悪の監獄環境など、酷い裁判だったのは知られている通りである。

ところが清廉を喧伝されている中共党は、実はそれ以上に惨いものだった。


中共裁判
撫順監獄では一人も死刑にしなかった。また、多くの

戦犯を不起訴にして帰国させた。

それに有期刑の戦犯も、ソ連を含む今までの拘留

期間をさっぴいて計算するし、昭和39年には全員、

満期前に返してやったり中国人民はなんて

寛大なんだ。

と、しきりに宣伝している。

確かに、1949年に中共党が支那全土を掌握した時

には、各国のたいていの戦犯裁判は終了した後で

あり、撫順と太原の戦犯に対して行なったのが

最初で最後だと思われている。

しかし、それは表向きの話であった。

山東省政府顧問だった園田慶幸氏は昭和23年、

中共により逮捕され済南監獄の独房に放り込まれ

た。2年ほど経て、「反革命的行為」という罪名を

告げられ、尋問と「学習」が始まった。

しかし、氏にはまるで洗脳が効かず、昭和29年

撫順戦犯管理所に送られた。8ヶ月でまた済南監獄

に戻され、監禁が続いた。
中共がもはや国内には未決囚はいない、と世界に

公言していた昭和32年、氏の初めての審理が

始まった。
10年の刑が言い渡された。未決中の期間を考え

れば翌年釈放のはずが、4年間拘禁が続き、

昭和37年また15年の刑が宣告された。

結局、釈放されたのは昭和38年で、18年間も

幽閉されていたのだった。

憲兵准尉だった上村喜頼氏は昭和51年まで北京に

収容されていた。

陸軍伍長だった平井栄三郎氏は昭和53年に釈放

されたが、25才から58才まで実に33年間も獄中に

あった。

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八路軍は進駐すると満洲各地で日本人を検挙し、

「民衆裁判」で多数を処刑した。
以下は満洲で日本人に対して八路軍が行なった

もので、事実として判明しているものだけである。


昭和20.11

錦州

副市長など3名を銃殺

  21.5  

三江省糧川県

民衆裁判により26名を処刑

  21.6

黒河街

反共者として約200名を殺害

  21.4
  21.8
  22.10

哈爾浜

反共者として、30名処刑・270名

行方不明
日本人会幹部800名を逮捕、

30名を処刑
日本人会幹部20数名を逮捕、

階級敵とし2名銃殺

  21.5

長春

撤退時に反共者として1051名を

拉致・連行

  21.6

敦化

反共者として3名処刑

  21.5

吉林

反共者として約50名を

拉致・連行

  21.3

吉林省蚊河県

戦犯として日本人会会長

夫妻を処刑

  20.9

吉林省徳恵県

戦犯・反共者として13名処刑

  20.9

間島

民衆裁判により戦犯・反共者

として28名処刑

  21.7

延吉

戦犯として官吏など30名を

処刑

  20.12

安東

民衆裁判により約300名

処刑
戦犯として将兵6名を

銃殺

  21.4

安東省昌図

民衆裁判により戦犯として

3名銃殺

  20.10

本渓

民衆裁判により約50名を

処刑
撤退時、婦女子230名と

男性10名を連行・行方不明

  20.12

鉄嶺

戦犯として官吏など16名を

処刑

  21.3

遼陽

戦犯として官吏など15名を

銃殺

  24.4

奉天省蓋平県

民衆裁判により戦犯として

3名銃殺

  21.2

通化

通化事件で戦犯として

約700名を処刑

中共党軍支配地区での裁判は、判決文すらなく

民衆裁判で即決の死刑だった。

しかも、どのくらい行われたのか、全体数も不明

である。

「反共分子」を罪名とした凄まじい殺戮であった。

しかも戦時中ではなく戦後に行われた処刑である。

これこそ軍隊による「戦争犯罪」であろう。

侵攻したソ連軍は日本人を「労働力」として連行

する使命があったので、殺戮はしなかった

(強姦・掠奪はやったが)。
満洲での日本人の虐殺は支那の暴民と八路軍

によって行われたのだった。

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留用

文字通り、留めて用いることである。日本人を

中国に留め置いて工業・鉱山などの再建の

ために利用しようとしたものである。

戦後、満洲で医者や技術者は、現地で家族共々

留用され帰国できなかった。

工場や運輸など生産設備を分捕った上に

人間までも拘束したのだった。

それは国民党も中共党も同じであった。

長引く戦火で中国国内では優秀な技術者が

不足していた。もともと満洲の鉱工業はほとんど

日本人が建設運営していたので、日本人技術者

を使うほうが効率的と考えたのである。
ただ、これは日本人をすみやかに

本国に帰還させることをうたった

ポツダム宣言の主旨に明らかに

反する。

そこで国民党は、強制的であったにしても、一応

本人の志願という形をとった。ただし、焦土と

化した内地に帰るよりは、住み慣れた満洲に

そのまま住み続けたいという日本人もいた。

さらに国府軍は中共党軍との戦いに日本軍

将兵を動員、戦後増員された部隊さえもあった。

内戦で国府軍を追い払った中共党軍も国府軍

以上に留用には熱心だった。それだけ医者、

看護婦、技術者が不足していたということだろう。
志願や説得の形をとろうとしたが、中には、

まだるっこしい形式を踏まず、騙したり銃を

突きつけて強制留用したケースも多い。

満洲争奪戦から、最終的には海南島攻略戦まで

国共内戦に引き回した。

しかも朝鮮戦争にまで投入された人達もいる。

中共党軍に従軍させられた日本人男女の、

戦死者の数はおろか全体数すら判らない。
岸壁の母が待ちあぐねた子息もその一人であった。

http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo7.html