フーション・シンドローム
戦後,、日ソ友好条約が交わされた後だというのに、
ソ連から支那共産党にプレゼントされた元日本兵たちは、支那の
共産党に戦犯という名目で逮捕され監禁された。
ご飯は与えられ、暴力は受けなかったが精神を洗脳されて
脳みそが支那の共産党とすげかわってしまった。
そういう事実が過去がある。
彼らは今も日本で平和活動と称して日本人を支那の共産党の
望むように洗脳するために活動している。
彼らの言い分は、まるで支那の共産党の公式見解そのものである。
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自白すれば軽く、拒めば重く
工作員(取調官だが、なんともストレートな名前である)は、一人ひとりについて何年もかけて集めた証言、告発書をもとに尋問した。つまり、罪状は最初から決まっており「自白すれば軽く、拒めば重く」と言われれば、工作員の言うままに合わせるしかない。
毎日呼びだされ、尋問を受ける。尋問というより説得であった。総括書は出す度に点検され、ここが違うとか、こう書けとか注文された。
相手の予定調書と違ったことを自白すればそれは自分がウソや間違いを言っていることになるのだ。
こういう経過で、日本語にはない罪行や、中共側のでっち上げや過剰な言い分まで認めざるを得なかった。
とにかく、一日でも早く日本に帰りたい、そのことしか頭になかった。
また、中共側は余計な自白を歓迎した。
本人の罪状だけでなく、伝聞した日本軍の罪状まで採集していった。
戦犯たちは総括書という形で、文章にして提出した。当然、文章の巧拙や想像力の大小によって、罪業に迫力の差がでてくる。
文章の上手い戦犯はほめられ、他の戦犯の文章指導や代筆までやり、悪鬼そのものの日本軍が作成されていった。
ストックホルム・シンドローム
監禁されるとその苦痛や憤り、自己崩壊から逃れるため、加害者の立場に自分を置こうとする場合がある。
相手側の一員になった気持ちになるのだ。
撫順に収監された戦犯の中で、下士官・兵などは特に戦争犯罪など起こしていない人ばかりである。
理由もなく6年も監禁されたのに、自ら戦争犯罪人を認める自白をし、そのうえ不起訴になったら中共の温情に感謝する、看守達と抱きあって泣いたりしたのだ。
この異常さは「フーシュン・シンドローム」と呼んでもよいだろう。
(「撫順の奇跡」と言っている人たちもいるが、それは別の意味)
中共に移監されてから、戦犯達は日本との連絡を断たれていた。家族は全く消息を知ることができなかった。
ソ連で抑留中にでさえ日本と手紙のやりとりができた。
国民党に捕らわれた日本人戦犯も日本との連絡はとることができたのである。
他の国の戦犯収容は「拘留」と呼べるが、ソ連と中共の場合は「抑留」である。裁判による刑の判決ではなく、「労働力としての利用」「洗脳」が目的であった。
敗戦後11年目の昭和31年、抑留中の戦犯は1062人。太原から140人が増え、47人が死亡していた。
戦後の戦争
日本軍が敗れても、国民党軍の主力は奥地にあり北支は共産軍が跋扈していた。
蒋介石はこの空白地帯の治安維持を日本軍に頼るしかなかった。日本軍の一部は国共内戦に巻き込まれ、8月15日以降も戦闘を続けていた。
延安に近い山西省では、日本への復員を嫌った多くの日本軍将兵が敗戦後も共産軍と戦った。
山西省の閻錫山将軍は日本の陸大出身で、山西省を独立国のようにして私兵を雇い軍閥を形成していた。
その維持のため日本軍将校を軍事顧問に雇い、各産業の経営存続のため民間日本人も留め置いた。
彼らは、昭和24年、太原が陥落するまで4年間も中共党軍と戦った。
それら日本人のうち、約140人が戦犯として太原戦犯管理所に収監されていた。
最高人民検察院特別軍事法廷
昭和31年6月9日、瀋陽で特別軍事法廷が開廷され、先ず8人が被告席に着いた。
場所は柳条湖に近い劇場を改修、東京裁判やニュールンベルグをかなり意識したものであった。
撫順からは計36人が起訴され、最高で懲役20年の判決が下った。
同時期、太原の特別軍事法廷でも、9人に同様の判決が出た。
釈放
昭和31年6月21日、獄死・自殺者以外、不起訴処分になった人は
即時解放が宣告され第一次の335名に釈放された。
すぐ後、7月.8月と3回にわたり釈放された。
不起訴処分になったということは、自らの戦争犯罪を認め、
「思想改造」に成功したということである。
シベリアも含め11年ぶりに開放されたわけである。
有罪になった人も39年までには全員帰国した。
死刑者を出さなかったり、即釈放となったのは周恩来の
指示だったと言われる。
彼の一声で量刑がひっくり返ったわけで、さすが人治の国の
面目躍如である。
「アメリカの従属下で日本の軍国主義が、再び中国を侵略する
のではないか」と危惧し、洗脳した工作員を急いで送り返した、と
見るべきだろう。
起訴された人はその後も拘留され、
最後に釈放されたのは昭和39年。
実に19年も監禁、洗脳が続いて
いたのである。
「反革命的行為」を戦争犯罪として、国内の反革命分子と同様の処置を
行なったのは中共だけであり、期間の長さも含め、他の国では
例を見ないやり方であった。