支那の共産党は日本兵を裁いて洗脳用の施設に入れ、共産党の宣伝部隊に仕立て上げた。 | 日本のお姉さん

支那の共産党は日本兵を裁いて洗脳用の施設に入れ、共産党の宣伝部隊に仕立て上げた。

昭和20年8月9日、いきなり満洲国になだれ込んだソ連軍は約60万の日本人をシベリアに強制連行したのだが、その捕虜は24年までに90%が日本に送還された。
しかし、中共建国の翌年の昭和25年、日ソ友好条約の締結時、一部の捕虜はスターリンから中共にプレゼントされ、撫順に収容された。

捕虜から戦犯に
撫順に収監された日本人は969名で軍人・軍属が約800名、官僚・警察官が約200名であった。
軍人の大部分は関東軍以外で、中支・北支で支那と戦った普通科部隊の将兵で、残りは関東軍・満州国の憲兵や法務、情報、治安関係の将兵だった。
(将官・高級官僚20、佐官級120、尉官級160、下士官・兵・軍属660)

中共に移監された途端に、彼らは「戦犯」という身分に位置づけられた。調べもしないで「戦犯」にしたのは、捕虜のままだと国際法上よろしくないからである。

鬼から人間に
いよいよ、後日、彼ら自身に「鬼から人間に戻った」と言わしめる洗脳が始まったわけである。

戦犯の処置は新中国の重要な国家政策として周恩来が直接指揮をとり、管理は司法部ではなく公安部が担当した。公安部長の羅瑞卿は、延安で多数の日本兵捕虜を洗脳して、日本軍の正面に送り出してきた捕虜政策のエキスパートであった。

昭和25年10月、朝鮮戦争が激化し、撫順の戦犯は哈爾浜の監獄に移動、佐官級以上と尉官級以下のグループに分けられ、別々の監獄に収監された。

朝鮮戦争が停戦に向かいつつあった昭和26年、下士官兵の669名が撫順に戻された。彼らに入ってくる情報といえば、監獄内の放送と人民日報、日本共産党編纂の書籍だけという環境の中で、管理所当局は「学習による思想改造」を本格化させた。

昭和27年、日本は講和を果たし独立。
撫順監獄では怒濤の「学習」が活発化する一方、末梢神経患者が急増していた。

昭和28年になると、多くの下級兵士の脳味噌はすっかり中共色に染まっていた。

哈爾浜
一方ハルピンの尉官級以上の人たちも「学習」が続けられ「総括書」を書かされた。これは、学習して得た共産主義の認識に基づき、過去の自分を自己批判しろということである。
罪は重くても完全に共産主義思想になったものは許す。逆に軽微な罪行でも思想を改造できないものは重く処罰する、としつこく繰り返された。

中共側は共産主義思想に転向してこそ初めて過去の旧思想時代の犯罪を自供できる、と主張していた。
つまり「思想改造」と「認罪」の同時工作であり、中共国内の反革命分子に行使した方法と同じであった。

尉官以上の人が取り調べを受けたのに対し、下士官・兵は坦白大会の方法がとられ、自分たちで自らを洗脳していった。
ソ連のラーゲリに居た頃も下級兵士ほどアクチブになり易かったのだ。

「認罪運動」
昭和28年末、哈爾浜組も撫順に移ったのだが、反共組と坦白組は隔離された。
この頃、反共組は毛沢東に直訴状を書いている。

昭和29年、周恩来から日本人戦犯に対する罪行調査命令が出され、調査のための「工作団」700名が編成された。
起訴に向けて、工作員が地方まで出かけ証人や証拠が集められ、管理所には被害者からの告発書が続々と集まってきていた。
戦犯の供述書に、日時・場所・人名・数量や人数が妙に詳しいのはこのためである。

そして本格的な取り調べが開始された。「坦白するものには軽く、逆らい拒むものには重く」という取り調べの方針が告知され、そのスローガンは所内の至る所に掲示された。これをきっかけに「認罪運動」というものも始まった。

「私はこんな酷いことをした」と戦犯全員の前で自白する発表会がもたれた。
この「坦白大会」には、中共党幹部も同席し、管理所の洗脳工作経過を視察するものであったが、戦犯達も自分が何を要求されているのかが判り、いよいよ追いつめられていった。

認罪学習は、徹底して行われた。みんなでしつこく何回も何回も犯罪行為を確認し、自己批判・相互批判が繰り返された。
「学習」とは言うものの、罪の自白とつるしあげ合戦である。「なんだ、それぐらい、俺なんかもっと凄いもんね」「お前、それぐらいじゃ足りんだろう」などとエスカレートしていったのだった。


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坦白(タンパイ)
坦白とは「認罪」ともいい、自ら自白して「戦争犯罪」を認めること。
昭和27年頃、中共全土を席捲した「三反五反」運動という犯罪検挙の方法があった。「坦白大会」というのが開かれ、人民大衆の集会で自己の犯罪を告白し、懺悔するというものである。
「坦白するものには軽く、逆らい拒むものには重く」処罰するとした。
その上、他人の犯罪も告発暴露しなければ、それは真の坦白ではないとされた。
そのため妻は夫を、子は親を、部下は上司の犯罪や悪業を暴き告発することが流行った。そして新聞では、それがすばらしいことだと褒め讚えた。
この「坦白大会」の方式が日本人戦犯にも適用された。

また、似たようなもので「検挙」と称するものもあった。
日本では「密告」というのだが、他人の罪を暴露して官に告げることを「検挙」といって大いに奨励された。検挙を徹底的に行なう者ほど共産主義思想に徹した優秀な人物とされるのである。
日本人戦犯にも、「検挙者には罪が寛大になる」と常々奨励していた。


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http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo7.html