戦後15年間も支那で拘束されていた人々
1.私の略歴について
まず簡単に自己紹介いたします。
1952年12月の末に撫順戦犯管理所に配置になり
まして、私は面倒くさいから、1953年1月1日と履歴書には経歴を
このように書くことにしております。
1953年から、最後の受刑者(3名)が帰った後も引き続き戦犯管理
所に残って、蒋介石集団の戦犯の管理、教育の仕事をしまして、
それがら文化大革命の真っ最中の1970年まで、18年間この建物の
中で戦犯管理教育の仕事に携わって来た者であります。(略)
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私は戦犯管理所時代に、(まあ本当言えばここは刑務所であり、
戦犯は囚人である。犯人である囚人が管理者によって虐待されたり、
ぶたれたり、罵られたりするのはごく当たり前のこと。昔の常識でした
が)一度も日本人を「この野郎!」とか叱りつけたりしようと思ったこと
は一度もありません。もちろんそういう行為も一度もしなかった。
相手の人格を尊重し、自分が真心から相手の身になって、帝国主義
者の教育によって歪められた人生、間違った道を歩んできた人たちを
親切に援助して、人間はどうあるべきかを指導する、手引きをする。
こうすることによって明るい未来を勝ち取るようにすること。
これが私の役目ではないかと。
4.人間は自らを変えることができる
もう一つは、人間は改造できるんだ。生まれつきそのままではなく、
教育によって、自分自身の努力によって人生観も変えることができる。
これはもちろん毛沢東語録にあるんですが、私はこのことを心底から
信じていました。
当時は若かったんですから、青春の情熱を注ぎ込んで、この人たちの
更正のために尽くしたつもりです。(略)
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1953年1月ですが、だいぶ思想改造が進んでいまして、中国人民に
対して非常に申し訳ないことをしてしまったというふうに変化していました。
認罪運動というものがありまして、自分の罪を認める運動、これは
自覚的に自分から進んで自分の過去を反省し、自分がいつ、どこで、
どういう事をしたという反省運動が進められていましたが、そういう反省が
進むにつれて戦犯たちの中国人に対する(中国人と言いましても管理所
の職員ですが)態度がだんだん変わってきました。
はじめは反抗的な態度だったのが、だんだん近づいてきて、これは
正比例しますよね。(略)
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1956年6月軍事法廷(軍人関係8名。これが一番最初の裁判)が開か
れました。特別列車を仕立てて、寝台車で中国各地を回ったのは
1956年の2月末でした。
この第一回の参観に私はついて参りました。戦犯管理所に通訳の
日本語のできる教育担当者は10数名いましたが、その中で日本語が
少しましだという事で行く先々で通訳をやらされるんです。
だから、自分が引率する何十名という一つのグループと、どこかの大学
や工場に行く度にそこの総通訳として立たされるんですよ。
特別列車を仕立てて、寝台車で審陽の鉄道局の所長さんが一人
ついて、全国各地を回ったんです。
審陽、撫順、長春、ハルピン、天津、北京、武漢、広州、上海と約一ヶ月
ほど、20日以上かけて旅行しました。(略)
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6月に第一回目の軍人関係の軍事裁判がありまして、そのときは私も
ずっと法廷に出ていました。審陽にある昔の満州国時代の鉄道学院に
特別軍事法廷を設けて、私は島村さんたちとずっと一緒でした。
その当時、裁判で私が一番気にかかっていたのは島村さんとかで(
私の担当ですから)、もしも軍事裁判で下手をすればどうするかという
ことで、中国側でも心配でした。
しかし、島村さんたちは島村さんたちで心配なんですね。どうすれば
中国人民に心から謝罪する気持ちを表すことができるのかと。
私は島村さんたちに言いました。形にはこだわらないで自分の本当の
気持ちを率直に表せばそれでいいんだと。島村さんが書いた「中国から
帰った戦犯」という本をご覧になったでしょうか。そこにも詳しく書かれて
いますが、本当に自分が心から悪かったという気持ちを表すために、急に
法廷で土下座をした。後ろの観衆の方に向かって、中国人民の
みなさま・・・・。
法廷にいる兵士が駆け寄って、そういう土下座はさせないようにと
立たせた。それで、島村さんは自分の気持ちの丈を中国人民の前で
率直に表すことができた。(略)
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日本からの通信も許可されていましたから、小包などもしょっちゅう
届いていました。その中には、調味料や鰹節とかが入っているので、
それを使ってさらに中国のものの上にこれをプラスしたから、日本人の
好みにあった、口にあった食事ができる。
8.受刑者家族の面会
1956年に、第一次、第二次、第三次と三百数十名ずつで日本に帰り
ました。そして、後は45名の受刑者。
そのほかにも元満州国関係の戦犯がいました。
その頃は国民党関係はまだ来ていません。文化大革命の後に
来たんですから。満州国関係の戦犯と45名の日本人戦犯。
この広い管理所の構内にはそれだけの人が住んでいました。
その頃、日本から受刑者の家族が、自分の主人に、父親に会うため
に戦犯管理所にやってきました。
中国紅十字会から受刑者の家族の面会を希望なされる方がいれば
世話してもよいと。最初は軍人関係の、藤田さんの奥さんとか、上坂
まさるさん(大分県出身)の息子さんとか、宇野晋太郎さんの家族が
来ました。
藤田茂会長の奥さんがここにみえて、最初は、
戦争が終わってもう十年以上も
なるのに、ほとんどの日本人は帰されたのに、どうして
中国に回されたのか。ほとんどの人が帰ったのに自分の主人はまだ
獄につながれている。不満の気持ちを言って来られたらしいんですが、
その当時、面会をしても私たちはその場にいません。(略)
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戦犯の中の城野 宏という方をご存じでしょうか。
この人の奥さんが大阪で高等学校の英語の先生をされていた。
なかなかのインテリでした。
もう一人は溝口嘉夫さんです。溝口さんの奥さんはやはり高等学校の
音楽の先生でした。
このお二人が面会に来るときに興安丸の船上で新聞関係とか報道
関係の人たちにおだてられて、まだこれからも服役しなければならない
のだから、中国政府の方に請願書を
書いて早めに釈放してもらうように
とそそのかされたわけです。それを筆の立つ
インテリである城野夫人とか溝口夫人に起草してしてもらった。
私はそれを見たことはないんですが、ちゃんとできあがっていたみたい
です。それを懐に忍ばせて戦犯管理所に面会に来た訳なんです。
面会と言っても刑務所なら格子戸を隔てて何分というふうに時間を
制限されて、監獄の刑吏たちの立ち会いの元で、そこに座っていて
面会が終わればそれで終わり。
しかし、撫順管理所での面会がまさかこういうふうなものとは全然思い
も及ばなかった。夫婦が夜も一緒に泊まれて、二人が一緒に何を
しゃべっても大丈夫。心おきなく戦犯たちの暮らし、日常生活というもの
をよく自分の目で確かめることができた。ああこれなら大丈夫だ。
中国に留学したつもりでいれば
よいのだと。今まではいろいろと落ち着かなくて、自分の
将来ははたしてどうなるのかと心配だったけれど。
でも受刑したといっても、戦後逮捕されてから受刑するまでの期間を
服役の刑期に換算していますから、早い人は刑を受けた明くる年には
もう帰っています。どんどん帰っています。
12,3年という人たちでも三分の二くらいは
期間前釈放。
刑期18年の人でも15,6年で帰される。
藤田さんは確か18年でしたが、
期間前でも、3,4年くらい繰り上げて釈放されたんじゃないですか。
(略)
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http://www4.plala.or.jp/kokoronokinniku/saisenseinohanasi.htm
支那に戦犯として捕らえられ、支那の裁判にかけられ、
16年も拘束させられていた日本人がいる。
そういう事実に唖然とする。
どんな日本人でも、15年も16年も支那に捕らえられていたら、
すっかり洗脳されておとなしくなって泣いて土下座して許しを請う
ようになるだろう。
戦争は「異常な状況」なのだ。戦後、普通の状態になってみれば、
戦争とは恐ろしいものだという考えに至るものだ。
戦争が終わって10年以上にもなるのに、ずっと
支那で刑に服していた日本人は、戦争が終わっても国に返して
もらえない捕虜だ。捕虜監禁、虐待だ。いくら自由に鍵がかかって
いない独房で過ごせても、日本からの仕送りの中身を開けられて
調味料とかつおぶしなどを混ぜ込んだ日本食っぽいご飯を与え
られても、やはり早く日本に帰れた方がいいに決まっている。
それを16年か、15年かで早く帰れたからマシだと言われても、、、。
しかし、このように支那が戦争が終わっても捕虜を日本に帰さず、
ご飯をたべさせて、日本兵の精神を改造したくれたからといって、
「中国は日本兵を教育して人間らしい姿にもどしてくださった。」と
言って支那を褒める日本人もいるのだから、もっとびっくりだ。
しかも無料メルマガにそんなコメントを出してくる日本人がいるの
だから、日本人も戦争に負けて本当に自虐的になっているのだと
良く分かった。戦後生まれの50代、60代は自虐的だとは
聞いていたが本当にそうなのだ。支那だって日本人をどんどん
満州で殺していたのに。
南京でも上海でも通州でも、たくさんの支那人による事件が起こり
日本人の民間人が大勢死んだのだ。それがきっけかけで日本と
争うようになったのに、支那はそれを忘れているのだ。
とにかく自国にいる外国人を殺したら、外国が怒るのは当たり前
だと思う。怒ったらいけないのだろうか?
一人でも殺人は良くないのに、通州では罪もない260人を惨殺した
支那人には罪は無いのか?留守を守る日本女性がほとんどだった
そうだが、戦争のきっかけを一生懸命作ったのは支那人だったし、
上海では戦争をする気概に満ちて兵を70万人集めたのは蒋介石
だったのでは?当時日本は支那とは戦争がしたくなくて、援軍を
送らなかったので、日本側に深刻な被害がでたそうだ。
その後、しかたなく援護を増やしたら、支那軍はどっと南京に
引き上げていった。それを追いかけて南京の事件が起きたのだ。
南京では、よく支那人に言われているように30万人ではなくて、2万人
ぐらいの死者が出たが数が問題ではなく、戦争が問題なのだ。
支那は戦争をしないように努力しなかった。
逆に、戦争をしたがった。支那は勝てると思えば攻めてくるし、
負けると思えば引く。そういうクセがある国だ。日本と支那は今後、戦争に
ならないように、お互いに近づかない方がいいと思う。
支那は日本人を理解できないし、理解しようと努力もしない。
日本大使館を壊しておいて謝らない支那政府を支那人が「それでよい。」
と、言っている国なのだ。お互いに近寄らず、戦争にならないよう
日本は支那に弱いと思われないこと。弱いと思われたら支那は
襲ってくる。そういう性格なのだ。やられたら世界中に日本の悪口だけを
宣伝し、支那が行った非道な事件には口をとざして知らないフリをする。
ひとりでも殺人を犯せば罪だと日本に怒りを表しながら、最初に日本人を
殺戮したのは支那人たちなのだ。不公平なのではないか?
戦争を避ける努力は常にしていないと、ある日気が付けば、戦争を回避
出来ない状態に陥っているのに気が付くということもあるだろう。
現に昔、そういう事が起こったのだから、今後は気をつけよう。
とにかく戦争は良くない。良くないのは誰でも知っているが現実には
世界では戦争が建絶えたためしがない。
戦争は、起きてしまえばどちらが強いか分かるのでいずれ終わりがくる。
戦争が終われば、捕虜は直ぐに捕虜の国に帰すのが普通なのだ。
支那もソ連も日本兵をなかなか日本に返さなかった。
その証拠として、これは貴重な記録だ。