「百人斬り」って何ですか?
以下はメールマガジン「靖国の友」からの転載。
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司法の歪みと対中外交を糾す決起集会報告
10月13日(金)九段会館にて「百人斬り」訴訟を支援する会の最高裁へ
向けての決起集会、司法の歪みと対中外交を糾す決起集会のお手
伝いをさせて頂きました。
画像は下記ブログにて公開しておりますので是非閲覧ください。
http://yasukuni.jugem.jp/?eid=93
ここで「百人斬り」というものを簡単に振り返っておきたいと思います。
間違いがありましたらご指摘お願い致します。
野田毅少尉(昭和12年当時)冨山大隊大隊副官
向井敏明少尉(昭和12年当時)冨山大隊歩兵砲小隊長
昭和12年支那事変当初、南京への進軍中南京手前の紫金山において東京日日
新聞(現在の毎日新聞・不買運動をお願いします)の記者浅海一男が日本国内
の戦意高揚を狙い親しくなった向井・野田両少尉に名前を借りて11月27日
から12月10日まで4回に亘り「百人斬り」競争をしているという報道をし
たのが発端です。
現実には、冨山大隊は紫金山には行ってません。
向井少尉は12月2日銃弾を受け戦線離脱されました。
大隊に復帰したのが12月15日。
向井、野田両少尉と浅海が話をしたのが無錫(「百人斬り」の現場とされる紫
金山からずーと上海寄り)、その後野田少尉と麒麟門東方(紫金山手前)で再
会。
★ここで重要なのは、当時は支那兵を戦闘中に斬った数を競ったということで
す。
これが東京日日新聞に掲載され、それをアメリカの新聞が転載し、(ここで支
那兵が支那人に変わった)支那の外信検閲官曾虚白の目にとまりオーストラリ
ア人ティンパーリーの手に渡った。そして出来上がったのが、支那プロバガン
ダ本「戦争とはなにか」である。
時は流れ、昭和21年向井敏明はGHQへ出頭した。GHQの調べで創作記事
であることが解り不起訴。
ところが翌22年二人は逮捕され巣鴨へ。
ここから浅海一男と毎日新聞の人権蹂躙が始まる。
そしてお二人は(田中軍吉少佐も同時に)昭和23年1月28日雨花台で殺され
た。
また時は流れ昭和46年本多勝一、朝日新聞(非買運動お願いします)の連載、
「中国の旅」が始まる。この時には「百人斬り」の内容がさらに凶悪にされ民間
人、捕虜のスエモノ斬りにされました。この当時日中国交回復交渉が背景にあり
ました。
朝日、本多は毎日、浅海に学んだんだと容易に想像できます。
捏造記事で、同胞を見殺しにした毎日、浅海は支那人から高い評価を受けまし
た。
国交回復を目前に大朝日と中共の利害が一致、朝日が新聞社の利益の為に国を売
ったのは明白です。
10月13日の決起大会で野田マサさんエミコクーパーさん向井千恵子さんが仰
りました。「遺族としてじゃない!日本人として「百人斬り」などというデタラ
メは受け入れられない!」多くの先生が「日本人の誇りの問題」と仰いました。
司法は、自分の判決が外交問題になることを恐れています。
正義をまっとうすることを恐れるぐらいなら法に携わる資格は無いと思います。
この歪んだ司法、外交を糾すために我々国民が出来ることは、正しい歴史、正し
い事実を一人でも多くの国民に伝え「百人斬り」などデタラメ、南京で日本軍は
規律正しかった事実を常識にすることです。
我日本の為に、未来の日本人の為に、そして靖國に鎮まる忠霊の恩に報いる為に
皆様の益々のご協力を必要としてます。
歴史を糾し、誇りを取り戻すことが出来なければ、支那の属領になるのは時間の
問題です。
まとまりのない文でゴメンナサイ。
「より良い日本を子供達へ」
靖國会 靖國忠霊祭
事務局長 沼山 光洋
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