支那事変の解説がすごくいい。 | 日本のお姉さん

支那事変の解説がすごくいい。

昭和6年に勃発した満州事変は、日清・日露戦争以来の我が国の

利権を守りたい、とする国民の率直な願望を背景にした現地陸軍の

一部が、排日運動に抗して自衛権を行使した紛争であった。 

しかし満州国の建設と支那北部に進出を伺う軍事優先の大陸政策は、

支那への利権獲得を狙う英米と、伝統的南進政策のソ連による対日

圧迫を生み出した。
そして勃発した支那事変は、米英ソと結託して抗日戦線を築き我が

権益を犯す蒋介石政権に対し、制裁を加え反省を求めるべく戦わ

れたものである。

これは実に複雑な性格を有しており、解き明かすのは当時の支那大陸

を巡る欧米各国の目論見を考察しなければならない。

表面上は日本と蒋介石の戦だったが、そこには米英ソ中共の戦略が

錯綜していたのである。

我が国は、日・満・支(汪兆銘政府)一体となった東亜新秩序の建設を

目指したが、大東亜戦争の敗戦とともに挫折した。

 その結果、蒋介石は台湾へ敗走、米の全面撤退、英は香港を残して

撤収という結果を招き、ソ連の進出・中共の勝利で幕切れとなったの

である。

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-sina1.html


===== 蘆溝橋事件 =====


明治34年の北清事変(義和団の乱)の講和議定書(辛丑条約)

を根拠として当時の北支は、日本をはじめ英米仏伊各国が

軍隊を駐屯させており、自由に訓練・演習を行う権利を有して

いた。

各国の兵力については取り決めがあったが、治安情勢に伴って

増派と撤兵が繰り返されるのが常であり、それは各国の情勢

判断に任されるのが実状であった。

昭和12年7月7日 1930 1個中隊(支那駐屯歩兵旅団

第1聯隊第3大隊第8中隊)が蘆溝橋付近で、「薄暮の接敵

行動と払暁攻撃の為の攻撃陣地構築」の夜間演習を開始した。


その日は月のない星空で、夜空に蘆溝橋城壁が望める静かな

暗夜であった。 演習が終わりに近づいた2240 演習終了を

告げる伝令に向って機関銃が誤って30~40発の空砲を

発射した。すると今度は後方から数発の実包射撃を受けた。

中隊長清水節郎大尉は演習中止を命令、集合ラッパを吹かせ

たが、そのとき再び十数発の実包が撃ち込まれて来た。


直後に志水菊次郎二等兵1名が行方不明になった事態

(のちに確認された)を受け、清水大尉は大隊長一木清直

少佐に報告、大隊長は北京城内の聯隊長牟田口廉也

大佐から電話で指示を仰ぎ部隊を非常呼集、戦闘準備を

整えるとともに、支那側に対し調査・謝罪を要求する交渉を

行おうとした。
7月8日 0325再度にわたる支那側からの射撃を受け、

牟田口聯隊長は断固戦闘開始を命令、0530 応戦を

開始した。(蘆溝橋事件は7月7日に起きた、とする史料は

誤りである。

日支両軍の交戦は7月8日に始まったのである。)
日本軍はたちまち堤防一帯を占拠、蘆溝橋城内の支那軍と

対峙した。

日本側はこの支那軍に撤退を要求、きかなければ攻撃すると

通告した。

このころ北京では特務機関長・松井太久郎大佐、第29軍軍事

顧問・桜井徳太郎少佐、第一聯隊付・森田徹中佐らによって

衝突回避のために支那側首脳と交渉中で、7月9日0400から

支那側が蘆溝橋から撤退する協定が成立した。


撤退時間を支那側が守らなかったために日本軍の砲撃が行われ

るといった事態も発生したが、一応事件は解決した。


7月11日1800には松井大佐と現地師(団)長との間に停戦

協定が調印された。支那側は最初の発砲は支那軍ではない、と

主張したが、日本軍側に遺憾の意を表し、責任者を処分する

こと等を条件に我が軍は蘆溝橋から撤兵した。

  日本軍側  戦死11名  負傷36名
  支那軍側  死傷者100名以上

===== 蘆溝橋事件の真相 =====


最初の発砲はどちらから行われたか?とは永年の研究対象と

されていたが、今日では「最初の射撃は宗哲元指揮下の国府

第29軍に潜入していた中共側である」とする説が有力である。


また北京に潜入し劉少奇にそそのかされた北平大学、精華大学

の学生を中心とした学生ゲリラがそれを支援していた、とも言わ

れている。
中共は7月8日早朝、述安の本部から全国へ「蘆溝橋で日本は

攻撃を開始した。全国民衆の愛国運動を結集して侵略日本に

立ち向かうべし」とする電報を発信している。


この打電時刻は日支両軍司令部でさえ事態の真相をつかんで

いない時で、この時点でこのような電報が打電されたことは、

中共が影でこの事件を画策していたことを十分推察される。


またモスクワのコミンテルン本部も、 

①あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねば

ならない。 

②そのためにはあらゆる手段を利用し 

③民衆工作によって彼らに行動を起こさせ、国民政府を戦争開始

にたち到らしめる。といった指令を発している。
中共当局はこれらの指令に基づき幾度も停戦協定を破った。

その後日本側から働きかけた事変解決の和平交渉をすべて

流産せしめたのである。

===== その後の緊張激化 =====


7月11日の停戦協定成立後の13日夜には再び射撃を交える

こととなった.。日支両陣営の中間地点で拳銃や爆竹を鳴らもの

があった。

中共の策謀の可能性が極めて高い)。また支那側は兵力の撤退

を行わず、却って兵力を増大し、12日の天津発同盟によれば、

支那中央軍の北上は活発を極め、武器弾薬の輸送も戦時状態を

呈しつつあった。
7月17日 蒋介石は、蘆溝橋事件は日本側の計画的挑戦行為

であり「最後の関頭」の境界である、とする重大な決意を声明。


これを受けた我が国は、対日全面戦争を決意したものと判断した。

7月25日、天津と北京の中間で、軍用電線を修理中の我が

部隊が、張自忠の部隊から攻撃を受け多数の死傷者を出す

郎坊事件が発生。


蘆溝橋付近における支那軍の挑発的態度に変化なく、北平や

南苑付近でも各種小事件が発生、26日には広安門城壁上から

トラックに分乗した我が部隊を射撃する広安門事件が起こった。

さらには29日安全であるはずの通州で、支那の保安隊が叛乱

をおこし、特務機関長細木繁中佐以下

日本人居留民260人を惨殺する

通州事件が発生した。 

ついに支那派遣軍は軍事行動の意見具申を中央に打電、

不拡大主義者・作戦部長石原莞爾も事ここに到っては決断せ

ざるを得ず、居留民・権益保護のための動員派兵が決定された

のである。

その後、起こった上海での衝突。↓

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-sina2.html