ほふられた子羊こそは | 日本のお姉さん

ほふられた子羊こそは

「ほふられた子羊こそは、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を


受けるにふさわしい。」聖書


小学一年生のときに、母親がわたしの部屋の壁に、この聖書の言葉を


書いて貼ったので、覚えてしまった。今でもすらすら言えるぐらいだ。


「ほふられた」という意味は、犠牲のために神様に捧げられたという


意味だと聞いた。「あがなわれた」とは、罪のために裁かれるはずの人


が、罪の代価を支払ってくれた人によって買い取られ、裁きから救わ


れたという意味だと聞いた。


罪の無い神さまのひとり子が人間となってこの世にこられ、


罪がある人間の身代わりに罪の罰を受けられた。罪のある人間が


救い主(メシヤ)によって「あがなわれた。」


イエス・キリストは神さまのひとり子であられるのに、人間の世界に


来られて、罪のための犠牲の子羊となって「ほふられた。」という風に


使う。あんまり日常会話に出てこない言葉だ。だけど最近、テレビで


「ほふり」という証券の保管振替機構の会社のCMを見てしまった。


「ほふる」という言葉は、「犠牲の動物を殺す」という意味であるはずなの


に、サービスの名前になっている。何か気になる。どういうつもりで


そんな名前を付けたのだろう?保険の「ほ」振り替えの「ふ」らしいが、


「り」は、何の略なのだろう?


テレビのCMを見て、一気にイエス・キリストを思い出した。そして母親が


壁に貼り付けた聖書の言葉を思い出した。


そして遠い昔、支那の大地にでてきた漢字を使う集団を思い出した。


彼らは遊牧民族だったらしく、漢字には羊という文字がよく出てくる。


大きな羊は、美しいから、美しいという字は、羊の下に大きいと書く。


また、支那の大地にでてきた漢字を使う集団は、聖書の予言である


罪をあがなう神さまの子羊である救い主のことを知っていたらしい。


漢字で罪が無いという意味である「義」という字は、羊の下に「我」と書く。


神さまの子羊が私の上にかぶさると、罪が無い者とされるという意味だ。


秦の始皇帝は大男で目が青かったと聞いたことがある。


いったい、どこから来た民族なのか知らないが、先祖は羊を神さまに


捧げる習慣のある放牧の民だったのではないかなと考えてみたりする。


この間トルコ料理を食べに行ったら、友達の頼んだ料理が「マントウ」


だった。見かけは小さな餃子の皮で肉を包んだ水餃子だ。それに


ヨーグルトがかかっている。マントウと言えば支那語で、饅頭と書く


肉まんのことだ。昔は支那とトルコもシルクロードでつながっていたの


だろうか。イタリア人がスパゲッティを食べるのは、支那の大地から


面が伝わったからだと聞いたことがある。


イエス・キリストが生まれてから何年かして、東の方から博士が黄金、


乳香、もつ薬を持って、救い主を拝みに来たと聖書に書いてある。


それらは王様に捧げる品物なのだそうだ。


彼らはヘロデ王に会見し、救い主の生まれる場所を聖書から調べて


もらっている。東の方にイスラエル人の信じる神さまを信じる人々が


いたということだ。イスラエル人がバビロンの捕囚になっていた時期に


神さまのことをそこら辺の人に伝えたのかもしtれない。


ちなみにヘロデ王は、新しい王さまが生まれる場所はユダヤの


ベツレヘムだという聖書の予言を聞いて、博士たちに「幼子を探し当て


たら、場所を教えてください。わたしも行って拝みたいから。」などと


言っている。博士たちは夢で、ヘロデ王に会わずに国に帰れと神さまに


示されてそのまま帰った。


ヘロデ王は、幼子の年齢を計算して、ベツレヘム中の幼児を全員殺害


している。


博士たちはどこから来たのかは聖書に書いていないが、もしかして


支那の大地まで聖書の神さまのことが伝わっていたのではないかなと


考えたりする。テレビのCMで「ほふり」という言葉を聞いたら、いろんな


事を考えてしまった。


母親の書いた聖書の言葉や、それが張ってあった自分の小学校一年生


の頃の部屋の壁や、そこに貼っていた自分で描いた「紫電改の鷹」の


絵までありありと思い出すのだから、脳ってヤツはすごいもんだ。