hangさんと論争中 2 | 日本のお姉さん

hangさんと論争中 2

┌──────────「hangさん」

日本のお姉さんの話でよく出てきますが、チベットがいつ、独立国から

中国に占領されたのでしょうか?

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┌──────────「日本のお姉さん」

1951年、中国人民解放軍はチベットへ侵攻、占領を開始しました。

その後10年間にわたって、チベットの精神的・政治的指導者である

ダライラマ14世は、中国のチベット人弾圧を解決しようと尽力しました

が、最終的にダライラマと当時のチベット政府、さらに約10万人もの

チベット国民が難民となることを余儀なくされました。

チベットでの中国人支配は残虐を極めました。多くのチベット人が

拷問され、人権は完全に踏みにじられたのです。

少なくとも120万人のチベット人が死亡し、少なくとも6千ヶ所に及ぶ

仏教寺院が破壊され、数え切れないほどの美術品やチベットの文化

遺産が破壊されました。

現在では、これらの美術品・文化遺産は消滅の危機に曝されている

状態です。

また、チベットに暮らすチベット人は、発言、宗教、表現の自由を奪わ

れました。一方的な投獄が相次ぎ、ダライラマの写真を保持する、と

いった非暴力の抵抗すら厳罰に処されたのです。

彼らは拷問され、その多くは死んでいきました。

侵攻後、中国政府は、占領下のチベットに多くの中国人を送り込み

ました。そのため、今日のチベットでは、チベット人よりも中国人の

人口の方が多くなっています。

チベット人は自分自身の国チベットにいながら、少数民族となって
しまったのです。

中国の侵略以前、チベットにはテクノロジーがほとんどなかったため、

チベットの自然資源は汚染や開発に伴う産業開発の手を免れていま

した。ところが中国の侵略以来、チベットの森林は中国にとって最大の

森林資源となり、1980年までに540億米ドル相当の木材が切り倒さ

れ、中国に運ばれています。

そのため今日では、チベットでは生態系の破壊が急速に進んでしまっ

ているのです。

このような恐るべき状況の中、チベットを脱出したダライラマを追い、

多数のチベット人が母国から逃亡、難民としてインドに渡りました。

逃亡は、ヒマラヤ越えを伴う過酷な旅でした。

インドに到着したチベット人は難民キャンプに住みましたが、その多くは

悲惨な貧困生活を余儀なくされたのです。

しかし、チベット人はこれらの計り知れない困難を堪え忍び、決して

希望を捨てませんでした。彼らは、怒りや苦しみに打ちのめされたりは

しなかったのです。
その代わり彼らは、古来より続く仏教の教えに従って、非暴力による

抵抗と、「中国人は中国に帰るように」といった中国への対話を試み

続けました。難民の身となりながらも、非暴力と憐れみの大切さを説き

続けたチベットの宗教的・政治的指導者ダライラマ14世は、世界的な

平和と調和のシンボルとなり、
1989年にはノーベル平和賞を受賞、今日まで我々に知恵と希望を

与え続けてくれています。

今日、チベット問題は世界中の関心を呼びつつあります。

大勢の人々がチベットの危機的状況を認知し、たくさんの賛同グループ

が支援活動を始めるようになりました。
http://www.sftjapan.org/info.html

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┌──────────「日本のお姉さん」―― チベット関係年表:

1904:ヤングハズバンド指揮の3千の英軍がラサを占領・9月チベット

    ―英国 ラサ条約を締結

1906:英清北京条約で、清朝は1904年のラサ条約を承認
1907:英露条約で「チベットに関する協定」
1908:インド・チベット間の通商に関する英清協定

1909:清朝、警備名目でチベットに大軍派遣・ダライ・ラマ法王、アン

     バンに 撤退要求
1910:02月清朝、東チベットに西康省を設立//四川総督・趙爾豊率いる

   清朝軍 がラサに侵入して掠奪・破壊行為が続発//ダライ・ラマ1

   3世はインド に亡命//清朝、ダライ・ラマの廃位を宣言

1911:全チベットで清朝官吏・兵士を追放
1912:07月チベット独立宣言を発表・チベットーモンゴル友好相互援助

      条約
1913:03月ダライ・ラマ13世が「5ヶ条宣言」を発表
1913:10月シムラでイギリス・チベット・中国の三者会談
1914:04月チベット―英国間でシムラ条約・チベット―インド間の国境線

     を定めたマクマホン協定も同時に締結

1917:中華民国軍、東チベットを侵略
1918:チベット・中華民国休戦協定調印
1923:パンチェン・ラマ、チベットを去って北京へ

1927:蒋介石中華民国総統がダライ・ラマ13世に「チベットが中国の

    一部」 となるように書簡を送る//ダライ・ラマはこれを拒否
1930:蒋介石中華民国総統がダライ・ラマ13世に「チベットが中国の

    一部」となるように2度目の書簡//ダライ・ラマはこれを無視

1932:チベットと青海省馬歩芳軍と交戦//チベット・青海省境界線

    協定調印
1934:ダライ・ラマ(1933/12/死去)の葬儀で中華民国代表が「チベット

    が中国の一部」になることを要求、チベット政府は拒否//

    中華民国代表の2名は残留、後に蒙蔵委員会を名乗る
1937:パンチェン・ラマ、中華民国軍500名の護衛の元に国境に到達

    するも 死去
1939:第14世ダライ・ラマ即位(1935~)

1942:日本軍がビルマに進攻//英国と中華民国政府はインド―チベット

   ―重慶のルート建設をチベット政府に迫るもチベット政府は拒否

    して中立貫徹
1944:チベット政府、農民の滞納負債利子全額免除
1946:チベット政府、連合国諸国に祝賀使節団派遣

1947:デリーで開催のアジア諸国会議にチベット代表が出席//チベット

   国旗掲揚//チベット政府、通商代表団をインド・英国・米国・中華民国

   に派遣
1949:チベット政府、中華民国代表部(蒙蔵委員会)の退去を命令

1950:チベット政府代表団、デリーで中共大使と会談//中共大使は

   「チベットが中国の一部」を提案するも、チベット側はこれを拒否//

   この交渉中の10月に中国人民解放軍、東チベットに侵入//

   国民議会、第14世ダライ・ラマ法王への全権を満場一致で確認//

   ダライ・ラマ法王とチベット政府は中共の侵略に抗議し、国際連合に

   アピール//エルサルバドル動議提出
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1951:05月中共の軍事的脅迫下で17条協定に調印//9月・中国人民

   解放軍が2万余の兵力でラサに進駐//ラサ経済は混乱・チベット

   の住民は苦境に陥る//ダライ・ラマ法王はやむなく17条協定=

   チベットの平和解放に 関する協定と称す)を批准
1952:ダライ・ラマ法王、改革委員会設置//パンチェン・ラマ、西寧より

   人民解放軍の護衛の元にチベットへ
1954:04月「中国のチベット地方とインド間の通商交通に関する」中印

   協定調印//北京政府の招待によりダライ・ラマ法王、パンチェン・

   ラマが北京を訪問//10/25 成都―ラサ間そして後に西寧―ラサ

   間自動車公路開通

1956:05月チベット自治区準備委員会が発足
1956:11月ダライ・ラマ法王、パンチェン・ラマ、仏陀生誕2500年祭に出
   席。中共に強い警戒感を持ち1957年04月まで帰国を延期する
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1957:東チベット・西チベットで民衆が中共に対して決起
1958:東チベットでカンパを中心に決起が続発//中共軍は寺院・町など

    を砲撃 破壊
1959:以下は中共軍の侵略に対するチベット住民の行動
   03/10ラサ民衆決起
   03/17ダライ・ラマ法王がラサを脱出
   03/22中共軍、民衆の決起を鎮圧
   03/28//中共、チベット政府の解散指令

   04月ダライ・ラマ法王、チベット臨時政府樹立宣言
   中共、チベットにおいて「民主改革運動」と称するチベット文化否定・
   破壊運動を開始(~1961/04)
   07月・チベット全土に中国通貨使用命令

1961:03月土地の買い上げ、農地分配が終了
   12月国連、チベット問題に関する決議採択
   インド等に亡命したチベット人はこの時点で6万人を超える

1962:パンチェン・ラマ、毛沢東宛てに7万語にのぼる意見書を提出
   12月中印国境武力衝突事件
1963:チベットで中共の抑圧侵略に対して蜂起、青年指導者らが処刑

    される
   チベット亡命政府、チベット憲法を公布
   パンチェン・ラマ、亡命を図るが失敗して逮捕され北京に幽閉される
1965:08月チベット自治区が成立
   10月中共が亡命者や難民に帰国を呼びかける

1966:文化大革命が始まる
   05月漢人紅衛兵約五百人、08月には1万人、北京からラサに進駐
   最盛時は十数万の紅衛兵が進駐、破壊・掠奪の限りを尽くす
   12月~翌年始め、チベット民衆7千人が蜂起

1968:02月官庁・学校でのチベット語の使用禁止
   09月ソフなどの地方で4千人以上が蜂起
1975:中共、ネパール政府に圧力をかけ、チベット・ゲリラを武装解除
   1959年の決起参加の逮捕者を釈放
   08月第一次ダライ・ラマ代表団、チベット訪問
   09月外国人記者のラサ訪問許可
1980:04月ダライ・ラマ法王、国連監視下の自由投票提案
  :05月と09月第二次・第三次ダライ・ラマ代表団、チベット訪問
   チベット語の授業が再開される
1981:02月ニューデリーの非同盟外相会議に、チベット人亡命者など

   千人以上がデモを行い中共に抗議
   05月中国・チベット独立秘密組織摘発者に5千元送付と発表
1983:08月チベット人、ラサで五百人、シガツェで千人以上、ギャンツェで
   40人逮捕される

http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yasukuni/tibet_shinyraku.htm

1951年、中華人民共和国成立の2年後に2万人以上の人民解放軍を

率いてチベットに入り、

チベット人僧侶を多数殺していますね。そこいらじゅうにチベットの僧侶

の死体が横たわっていたそうです。

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