西太后といえば、恐い女性というイメージがある。 | 日本のお姉さん

西太后といえば、恐い女性というイメージがある。

1898年:西太后が反改革クーデター
 1898年9月21日、西太后がクーデターを起こし光緒帝を幽閉した。1898年は干支で「戊戌(ぼじゅつ)」の年にあたることから、事件は「戊戌の政変」と呼ばれる。

 西太后は中国では「慈禧太后」と呼ばれることが多い。清朝10代皇帝の同治帝の生母であり、11代皇帝の光緒帝にとっては母の姉にあたる。同治帝の死後、摂政として権力をふるったが、1889年からは光緒帝に親政を許した。

 1894年の日清戦争以降、列強による侵略が強まったことから1898年6月11日、光緒帝の支持のもとで康有為、梁啓超などの知識人が政治改革を開始した(「戊戌の変法」)。この改革は、日本の明治維新に倣って「国会を開き、立憲君主制を実現し、国を強化する」というものだった。

 しかし、「戊戌の変法」はあまりにも急激な改革で、官僚組織の大幅リストラを盛り込んでいたこともあり、保守派の強い反発を招く。9月21日、西太后は光緒帝を中南海の瀛台(えいだい)に幽閉し、光緒帝の名前を騙(かた)って西太后の「訓政」を求める詔書を発令した。

 28日には「戊戌六君子」と呼ばれた変法派の主要メンバー6人を処刑するなど、変法派を徹底的に粛清。康有為、梁啓超は日本に亡命し改革は3カ月で挫折した。西太后は権力の座に返り咲き、1908年に死去するまで権力者として君臨した。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)
(サーチナ・中国情報局) - 9月21日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060921-00000000-scn-cn

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西太后は、気に入らない麗妃という女性の手足を切り取って、瓶に


首だけ出して入れて、そのまま体が腐るのを待ったそうだ。


彼女の苦しむ姿を見て満足しようとしたところが、逆に「苦しいのは


あなたの方じゃない?」と言われて激怒したそうだ。ただ、この話は


西太后ではなく、彼女と並んで中国史上3大悪女といわれる漢の


呂后(りょごう)の話だともいわれている。呂后(りょごう)は気にいらない


女性の手足を切り取り、人糞を食べるブタのオリに入れて、這いずり


回る姿を見て笑っていたそうだ。(長い間、生きていたらしい。)


西太后が彼女のマネをしたのかもしれない。


西太后は美に執着している女性だった。


自分の部下の奥様がお肌が綺麗な理由は真珠の粉を飲んでいるからだ


ということを見つけたら、真珠を独占して、彼女の手に入らないように


したんだって。玉(ぎょく)の美肌ローラーを大事にしていて、紫禁城を


去る日が来ても、そのローラーだけは手放離さなかったそうだ。


玉(ぎょく)には珪素(けいそ)が入っている。珪素はコラーゲンの生成に


役立つ成分なのだそうだ。だったら、美肌ローラーをころがすのは意味


があることだよね。真珠の粉もアミノ酸の塊だからお肌にはいいはず。


美肌ローラーや真珠の粉は、今でも売っている。


使っている人はいるのかな?


西太后も使っていた玉(ぎょく)のローラーをころがして、真珠の粉を


飲めば、あなたも美肌になれるかも。


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西太后:(満州 旗人)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』西太后せいたいこう 道光 15年10月10日(1835年 11月29日 ) - 光緒 34年10月22日(1908年 11月15日 ))は 咸豊帝 の妃で、同治帝 の母。 末期の権力者。満州 旗人 (鑲藍旗人)の葉赫那拉 (エホナラ)氏の出身。慈禧太后じきたいこう)のこと。老仏爺。

中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(寡婦女帝)」という呼称がよく使われる。幼名(個人名)は蘭児(らんじ)。

[1]

紫禁城 内における二人の皇太后の住む場所によって東太后 (皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第二夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。なお「せいたいう」という読み癖は正式の読みではない。

生涯

西太后の出生地は不明で、安徽省 蕪湖 説、内モンゴル のフフホト説、山西省 長治説など諸説があるが、近年の学界では北京 出生説が有力とされる。 西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚 で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年 、安徽省の赴任先で太平天国の乱 に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。

1852年 、数え十七歳のとき、三年ごとに紫禁城でおこなわれる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、十八歳で咸豊帝の後宮 に入って「蘭貴人」となり、序列第三位の妃となる。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后 )であった。

西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば「西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った」、「最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した」、 「いわゆる『葉赫那拉 (エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった」などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。

1856年 、西太后は咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、皇后に次ぐ二番目の地位である貴妃に昇進。次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強めた。

その後咸豊帝が崩御 した1861年 、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位させ、自らも東太后と共に垂簾聴政 の名の下、咸豊帝の弟である恭親王 奕訢(エキキン)を取り込み、事実上の摂政として政治に介入した。一方咸豊帝の遺命を受け政治の中枢を掌握していた「顧命大臣」載垣や端華・粛順たち8名は垂簾聴政に真っ向から反発し、激しい権力争いの末に載垣や端華・粛順を処刑(辛酉政変 :1861年)し、権力を手中にした。またこの時、梳頭太監だった宦官 李蓮英 をとりたてて重用した。

1874年 同治帝の大婚 を機に親政を行おうとしたが、天然痘 のため若くして崩御。一説によると真の死因は梅毒 で、西太后が皇帝と皇后(嘉順皇后 )を離間させたため、同治帝は天橋 の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという。天然痘か梅毒か、学者のあいだでも意見は分かれている。 同治帝は子供を作らずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り他の皇帝候補者よりも血縁の近い、妹の息子である載湉(さいてん)を光緒帝 として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。

さらに1881年 東太后が崩御。これによって西太后は清朝において誰に遠慮することもない地位を確立した。このため西太后によって東太后は毒殺されたという風聞が広まった。1887年 光緒帝の成年に伴い、自らは隠退を要望するが、混乱を恐れた重臣たちの意を受け3年間の「訓政」という形で政治のフォローを行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。 1888年 には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙。

同治帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては李鴻章 らと結び、彼らの推進する洋務運動 を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間を同治中興 と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は1895年日清戦争 により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、整備用の海軍予算を西太后が私的に流用していたといわれる。

日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、明治維新 にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為梁啓超 を取り込み、1898年 に真の光緒帝親政を開始した。これを戊戌の変法 (別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意した。改革に好意的と見られていた袁世凱 が一部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、中南海 の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変 )。わずか三ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。さらに将来光緒帝 を廃位すべく、端郡王載漪(サイイ)の子溥儁(フシュン)を大阿哥(清朝では立太子の制度を廃止した為、普通は皇長子もしくは皇嗣子を指す)に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の廃位は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女はフラストレーションを蓄積させていった。この点が後の義和団支持へとつながっていくことになる。

1900年 義和団の乱 が発生。義和団は「扶清滅洋」をスローガンとし、国内にいる外国人を次々と襲った。このため、清朝内にはこれに支持を与え、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする動きがあった。その中心人物の一人が西太后である。しかしこれは西欧列強の実力を過小評価したものであり、すぐさま日本を中心とした八ヶ国軍が派兵される事態を招いた。その結果、首都北京が陥落、西太后自らは側近を伴い西安へ逃走を余儀なくされた。この際、光緒帝の側室珍妃 を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる事を命じたといわれる。

義和団の乱終結以後、遅まきながら西欧風の政治改革の必要性を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を手本に所謂「光緒新政 」を開始した。しかしその新政も、辛亥革命 への流れを堰き止めることはできず、遅きに失した観は否めない。

1908年 光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」溥儀 を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御した。光緒帝と西太后の亡くなった日が近いことから、自らの死期の近いことを悟った西太后が帝を手にかけた、という流説が飛び交った。

中国史上、権力者として50年もの長期にわたり女性が君臨した例はなかった。(前漢呂后 は約25年、武則天 は帝位について16年であった。)

後世の評価

権力欲と人を巧みに操る感覚が並外れたものを持っていたが、それ以前に皇太后という身分では外界の情報が届きにくく、かつ、国体(王朝)の保持を第一義としてしまったために、人民を顧みない政治を行い続けたことは当時の中国人(支那人)にとって不幸以外の何物でもなかった。また諸外国との戦争処理の際に安易な妥協や講和をし続けたことで清朝そのものを疲弊弱体化に導いてしまった事については後世の歴史家たちから批判されている。

他方で西太后が君臨する前から中国の疲弊弱体化は進んでおり、西太后が現れなかったらもっと早く中国の分割・植民地化は進んでいた、という学説もある。 もっとも、現代中国においては清朝が存続するより、早急に滅亡して中華民国が早く成立したほうがよかったとする意見もある。