GOSAKUさんの経験談「シベリア抑留記」 | 日本のお姉さん

GOSAKUさんの経験談「シベリア抑留記」

GOSAKUさんの自己紹介。

1929年1月1日生まれと言うと「あれ!1月1日生まれ?凄いじゃん」
とよく言われますが、実は28年の年末に生まれたのに、届け出を遅ら

しせて1月1日にしたと、おばあちゃんか兄かに聞いたのをおぼろげに

憶えてい│ます。


当時は病院でお産をするのはごくまれで、異常出産以外は産婆さんが

来て、自宅で産むのが一般的でしたから、届けが2、3日ずれるのは

普通でした。

三人兄弟の次男。父は大工、棟梁と言われるのを誇りにしていました。
かなり見栄っ張りで常時5、6人の、小僧といわれる見習がいて、

全員揃いの襟と、背中に”まる伍”と印の入った半被=ハッピ)を着

て毎朝工事現場へ自転車で疾走するのを街の人達が眺め、「ごさやん

とこの若い衆は威勢がいいなあー」と言われたと自慢げに話していま

した。

ちなみに父の名は伍作です。半被は職人の制服で、盆暮れには真新

しい半被と地下足袋を支給します。

仕事が切れると職人や小僧を遊ばせる事になるので、かなり無理をし

て仕事を請け負い、いつも台所は火の車で母は苦労の連続、私が

小学4年の時に42歳の短い生涯を閉じました。

電化製品のなかったその頃は、家事は重労働でした。掃除は、

はたき、箒、雑巾がけ、また炊事の水は井戸から汲み上げバケツ

で炊事場の甕まで運び、洗濯は井戸端で盥=たらい)で洗濯板で

ゴシゴシ手洗い。風呂水もバケツで井戸から運び、薪で沸かします。


私も「勉強せよ」と言われた事は一度もなく、学校から帰ると水汲

みが仕事でした。

岡崎市は当時、人口約8万の中都市で(現在人口35万)、特に田舎と

いうわけではありませんでしたが、上水道の普及率は当時約30%で、

公共施設か持ち家以外の借家の殆どが井戸水頼りで、ガスに至って

は0.8%の普及率でした。

平均寿命も労働量に比例するのでしょうか、現在のように女性が

男性を8歳も上回るということはありませんでした。「熱い! 寒い!」と

言ってエアコンのスイッチを入れ、蛇口をひねればお湯が出、朝起き

ればご飯が炊けているなんて、当時の主婦には想像さえできなかった

でしたでしょう。

‥そんな時代でございました。

http://chinachips.fc2web.com/repo1/015gosaku.html#JSKT5


竹島のことも書いてあります。↑

GOSAKUさんは、今、脳卒中で入院中です。回復しても以前のよう

には戻らないと医者に言われているそうです。GOSAKUさんのことは

無料メルマガで記事を読んだだけでどんな人かも知らないのだけど、

倒れていると聞いて悲しくなりました。朝鮮併合時代のことも書いて

くれています。名前を日本風に変えろとは日本人は強要していないし、

学校で積極的に韓国語も習いなさいと日本は奨励していたそうです。

日本は学校の予算をそんなに無尽蔵に送ってはくれなかったので

(当事は日本も貧乏だった。)限られた予算の中で、日本人の教師は

朝鮮の学校で日本人も朝鮮人もわけへだてなく教えたそうです。

朝鮮半島の産業やインフラ整備は全部日本から持ち出した費用で

行われました。今の韓国人が、日本に憎憎しげに言うように、日本は

朝鮮半島の人間をひどく扱ったわけではないのです。

そういうことを知っている人の話を読んでください。