最近アメリカの偉い人はヤルタ会談は誤りだったと語ったとか。 | 日本のお姉さん

最近アメリカの偉い人はヤルタ会談は誤りだったと語ったとか。

ヤルタ会談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ヤルタ会談(中央ソファー左からチャーチル・ルーズベルト・スターリン)
ヤルタ会談(中央ソファー左からチャーチル・ルーズベルト・スターリン)

ヤルタ会談(やるたかいだん)は、1945年 2月にソ連 クリミア半島ヤルタ で行われた、F.ルーズベルトアメリカ )・チャーチルイギリス )・スターリンソ連 )による首脳会談。


首脳の会談が行われた結果、第二次世界大戦 後の処理についてヤルタ協定 を結び、イギリス・アメリカ・フランス ソ連 の4カ国によるドイツ の戦後の分割統治やポーランド の国境策定、エストニア ラトビア リトアニア バルト三国 の処遇などの東欧 諸国の戦後処理を発表した。

併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定 も締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島 樺太 などの日本 領土の処遇も決定し、これがその後も日本とソ連(現在のロシア )両国の間の長年の懸案となった、いわゆる「北方領土 問題」の原因となった

常任理事国

また、その後正式に発足した国際連合 の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国 ・ソ連の5カ国(後の国際連合常任理事国 メンバー)の拒否権 を認めたのもこの会談であった。

ポーランド問題

ヤルタ会談の半分以上の日程は、このポーランド 問題について話し合われた。

第二次世界大戦中、ポーランド は西半分をドイツ に、東半分をソ連 に、それぞれ分割占領されていた。しかし、ドイツ独ソ不可侵条約 を破って、ポーランド東半分に進軍すると、その全域がドイツに占領される。その後、アメリカ の支援を受けたソ連軍は、体制を立て直し、ポーランドに進軍。ポーランドの東半分をドイツから奪還し、ルブリン で、ポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権、ルブリン は地名)を樹立する。ソ連軍は、首都ワルシャワ に迫ったとき、モスクワ放送 で、国内軍(ポーランドの市民で作る、反ナチス 勢力)に蜂起を呼びかける(ワルシャワ蜂起 )。国内軍は、ソ連からの支援を信じて蜂起し、ワルシャワを占領する。ところが、国内軍の蜂起後、ソ連軍は進軍を停止。国内軍に、ソ連からの支援がないことを知ったヒトラー は、ワルシャワの徹底的破壊を指示した。

アメリカとイギリス は、ソ連に国内軍への支援を要求したが、当時のソ連指導者、スターリン はこれを無視した。これにより、市内の8割の建物が破壊され、15万人以上の死者を出して、国内軍は壊滅し、降伏した。当時、ロンドン にポーランドから亡命していた指導者たちで作る、亡命政権 が存在し、イギリス政府は、亡命政権をポーランドの正式な政権として、承認していた。しかし、カティンの森 で、ソ連軍に連行されたポーランドの将兵の死体が、大量に発見される(カティンの森事件 )と、イギリス政府はこれに関しての調査を赤十字 に依頼した。これにより、イギリス政府の承認する亡命政権とソ連は関係を断絶した。ソ連は、ルブリン政権に、実質的な統治をさせ、各国にルブリン政権を正式な政権と認めさせるために、国内軍を意図的に壊滅させたのである。

ヤルタ会談では、ロンドンの亡命政権と、ルブリン政権のどちらが正式な政府かを巡って、イギリスとソ連が対立し、平行線をたどった。ポーランドは地理的な問題から、ソ連にとっても、イギリスにとっても重要な国であった。ソ連にとっては、隣国であり、ドイツのソ連侵攻の拠点になったことから、安全上の問題で、重要だった。一方、イギリスにとっては、首相のチャーチル が、社会主義 の拡大を懸念していたため、共産党 政権を認めることはできなかった。結局、アメリカのとりなしで、総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、またポーランドの国自体を、西へ移動させることで決着した。

ところが、スターリンは、選挙のために戻ってきた、ロンドン亡命政権の指導者を逮捕し、裁判にかける。これにより、ポーランドが社会主義国となることが決定的となった。後のアメリカ大統領、トルーマン は、このことを知って激怒し、米ソの対立が深まっていった。

ドイツ問題

東側陣営西側 陣営とで、ドイツを共同管理することが決められた。

極東密約(ヤルタ協定)

主に日本 に関して、アメリカ ルーズベルト 、ソ連のスターリン 、およびイギリスのチャーチル との間で交わされた秘密協定。ルーズベルトは、千島列島 をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約 の一方的破棄すなわちソ連の対日参戦を促した。ヤルタ会談では、これが協定の形にまとめられた。ヤルタ協定では、ドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、モンゴルの現状は維持されること、樺太 (サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島 をソ連に引き渡すこと、満州 の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保などが、決められた。
ヤルタ協定に従って、ドイツ降伏3ヵ月後にソ連は日本に宣戦布告。広島に原爆投下されても、なおも抵抗を続けていた日本軍は、ソ連参戦の翌日にポツダム宣言受諾を決めた。


(ソ連は日本がアメリカとの戦争を止めたいので仲介してくれと頼んだ

時に日本にヤルタ会談の話を言わずに、焦って日本を攻めた。


また日本との不可侵条約も破った。ソ連は北海道も盗ろうとしたが、

アメリカに止められてあきらめた。


うそつきというか卑怯というか火事場泥棒というか、

戦争って何でもありなんですね。日本には何をしてもどこの国からも

罰されない。勝った国だけ日本の代表を捕らえて2年半も私的裁判に

引き回した。アメリカの原爆は結局どこからも裁かれていない。

最後には日本の捕虜7名を絞首刑にしてやっと満足して引き上げて

くれたのだった。by日本のお姉さん)

その他の国について

この密約の会談では、日本 以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、カイロ会談 で決定していた、台湾中国 への返還を、改めて確認した。また、ここでいう中国とは、蒋介石 の率いる中国国民党 であり、当時はソ連も国民党を中国の正式な政権として支持していた。また、朝鮮半島 は当面の間連合国の信託統治とすることとした。しかし、米ソの対立が深まるようになると、その代理戦争朝鮮戦争 となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。

批判

アメリカにとって、ドイツ敗戦後も長く続くことが予想された太平洋戦争大東亜戦争 )での自国の損失を抑えるため、まだ日本と日ソ中立条約 を結んでいたソ連に条約破棄・対日参戦させることに比重を置いた会談であった。日本降伏後のソ連の戦果に日本の領土を与えるという非常に妥協的な締結内容であったと言われている。(日本のポツダム宣言受諾まで2日間の戦闘しか行っていない)

2005年 5月、世界における自由と民主化の拡大を意図しているアメリカのブッシュ大統領 は、対独戦勝60周年記念式典への出席のためのヨーロッパ歴訪中、訪問先のラトビア で冷戦下のヨーロッパをめぐる歴史認識に関する演説を行い、ヤルタ協定を東欧諸国における圧制を生むなどした諸悪の根源と非難している。またヨーロッパの分割を認めたことに、アメリカも一定の責任を持っているとの認識を示した。

またヤルタ協定は、当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法 の条文に違反している為、ロシアによる南樺太 及び千島列島 の領有は法的根拠がないとする主張がある。


冷戦

この会談以後の戦後体制をしばしばヤルタ体制 と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする資本主義 国陣営と、ソ連を中心とする共産主義 国陣営の間で本格的な東西冷戦 が開始されたと言われている。