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1932年:平頂山事件起こる

 1932年9月16日、日本軍が平頂山村の村民を虐殺する「平頂山事件」が起きた。平頂山村は遼寧省・撫順市から約4キロメートル離れた所にあり、当時は400世帯3000人余りが住んでいた。

 前年9月に始まった満州事変により東北地方では抗日運動が活発化していて、遼寧省でも抗日自衛団が組織されていた。事件前日、抗日自衛団1200人が平頂山村を経由して日本軍の配給店を焼き払い、更に日本の支配の象徴であった撫順炭坑を襲撃、この戦闘によって炭鉱所所長など数名の日本人が死亡した。

 日本の撫順守備隊は平頂山の村民が抗日自衛団に協力的であるとして、報復のために全員を崖下に集めて機銃掃射を浴びせるなどして虐殺、村全体を焼き払った。後日、日本軍は遺体に石油をまいて焼却し、ダイナマイトで崖を爆破させて遺体を埋めた。

 1951年、犠牲者を悼んで撫順市に記念碑が建てられた。1970年には事件があった場所で遺骨の発掘作業が行われ、その後「平頂山殉難同胞遺骨館」が建設された。ただし、遺骨に関しては、「別の戦闘による犠牲者の可能性があり、疑問が残る」とする意見もある。

 1996年には事件で生き延びた村民3人が、日本国政府に国家賠償を求める訴訟を起こした。一審の東京地裁、東京高裁ともに「平頂山事件」を事実として認定したが、賠償に関しては国家無答責の法理により賠償責任を退けた。最高裁は2006年5月16日、原告の上告を棄却した。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)

(サーチナ・中国情報局) - 9月16日

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当時は、支那では軍閥が入り乱れて闘争をしていたから、

出てきた遺骨も支那の国民党と共産党軍の戦いの跡かも

しれないし、三国志時代の人々の遺骨かもしれない。

匪賊(ひぞく)も多かった。満州以外の土地ではずっと支那人は

戦争ばかりしていたのだ。

いつも支那では、時代が変わるごとに民族が入れ替わるほどの

戦争があり、大勢の人間が死んだ。

そういう人々の遺骨が出てきたら全部日本軍の

せいにしているという話を聞いたことがある。


だから何でも調べずに鵜呑みにはできない。

東京地裁はちゃんと現地に行って遺骨の年代も全て

調べたのか?疑問が残ると言う人がいるのに、罪を認めたのか?

本当に日本軍がしたのか当時の軍の隊長を呼んで調べたのか?

それとも証拠も無く支那人が言うから、事実と認めたのか?


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平頂山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平頂山事件(へいちょうざんじけん)とは、1932年 9月16日 、撫順炭鉱を警備する日本軍 が、楊柏堡村付近の平頂山集落のほとんど全ての住民を虐殺 した事件。虐殺された人数は、400-800人とも、3,000人とも言われている(集落の世帯数は約400)。

撫順炭鉱は、満鉄 の所有で、日本軍守備隊が警備していた。当時は、満州国 の建国宣言(1932年3月1日 )以来、反満抗日運動が活発化していた。

1932年9月15日反満抗日ゲリラ である遼寧民衆自衛軍は、平頂山集落を通過し撫順炭鉱を襲撃した。この襲撃により、炭鉱所所長含む死者5名、負傷者6名、総額21万8,125円の被害を受けた。


事件の経緯

一般に言われる事件の推移は以下の通り。 日本軍の撫順守備隊(井上小隊)は、遼寧民衆自衛軍が通過したにもかかわらず日本軍に通報しなかったことを理由に、平頂山集落がゲリラを匿っているとし、集落を包囲、見せしめのために掃討 を行った。掃討の方法は、平頂山の全住民(女性・子供・赤ん坊を含む)を1ヶ所に集め、機関銃 掃射を行い、それでも死ななかったものを銃剣 で刺して殺害した。死体には重油 をかけて焼却し、その後、崖をダイナマイト で爆破して土石の下に埋めた。これは、事件を隠蔽するためと言われている。 但し、一部では匪賊討伐中に起きた戦闘による犠牲であるとの説もある。これは、当時開かれていたジュネーブ国際連盟会議の席上でこの事件が取り上げられた際、日本側責任者の問い合わせに満州駐在日本大使兼関東軍司令官が回答した返電に基づくものであり、検証の必要性がある。

日本では、本多勝一 朝日新聞において連載した「中国の旅 」で、この平頂山事件がとりあげられ(連載1971年、書籍刊行1972年)、広く知られるようになった。日本でこの事件が知られるに前後して、中国では平頂山殉難同胞遺骨館が建設された(1971年竣工)。

「平頂山事件」裁判

平頂山事件の生存者3名が日本政府に国家賠償を求めた訴訟。2006年5月16日、最高裁が国家無答責 の原則により、原告側の上告を棄却する決定を出し、結審した。