天皇とマッカーサー | 日本のお姉さん

天皇とマッカーサー

天皇がマッカーサーと出会って、マッカーサーが感銘を受けたのは


本当だ。天皇を救おうとして、アメリカに送る文書を作成したマッカー


サーのアメリカ人の秘書と、彼の友達のクリスチャンの日本人女性の


ことを書いた本によると、マッカーサーは天皇に会ってから、天皇を


アメリカ議会の決めた処罰から救おうと、かなり頑張ったということが


書いてある。


アメリカ議会は、天皇を処刑にしようと激しくマッカーサーを突いたそうだ。


マッカーサーは、個性的な性格であったので、自分が正しいと思った事


を実行した。彼の秘書も有能だった。


彼の秘書は日本がアメリカと戦争をする前から、日本のクリスチャンの


友人と交友が続いており、彼女の紹介で小泉八雲の本を愛読し、八雲


の墓をたずねたこともあった。八雲の妻と子とも仲が良かった。


また、秘書の友人の教師であるクリスチャンの日本人女性は、アメリカ


留学の経験があり英語が堪能だったし、天皇を敬愛する人だった。


この二人が連携して天皇を助けるための文書を書き上げたそうだ。


マッカーサーの秘書は、天皇を処刑したがったアメリカ軍の同僚たちに


イジメられて、かなり辛い時間を過ごしストレスがたまった。


天皇の命が助かるのを確認すると直ぐに、アメリカ軍を辞めて帰国した。


その辺の時のことが書いてある。

http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=86


(略)

次に、その寄稿の一部を紹介したい。重光によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇のご発言を紹介したというのである。

 「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」

 そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想をこう述べたという。  

 「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」

(略)

しかし、幸いにもというべきか、あの会見の直後、マッカーサーはその内容を断片的に複数の側近などに漏らしている。そこには創作が入り込む余地は考えにくい。しかもそれらは大筋で、その後のマッカーサーの発言を裏付けているといってよい。

 例えば会見の時に大使公邸にいたマッカーサーの幕僚の証言だ。軍事秘書のボナ・フェラーズ准将は、会見が行われた九月二十七日に自分の家族に宛てた私信で、天皇が帰られた直後にマッカーサーから聞いた話として、こう伝えているという。

 「マッカーサーは感激しつつこういった。『……天皇は、困惑した様子だったが、言葉を選んでしっかりと話をした』。『天皇は処刑を恐れているのですよ』と私がいうと、マッカーサーは答えた。『そうだな。彼は覚悟ができている。首が飛んでも仕方がないと考えているようだ』」(升味準之助『昭和天皇とその時代』)

 また、会見から一カ月後の十月二十七日、ジョージ・アチソン政治顧問代理は国務省宛てに、マッカーサーから聞いた天皇のご発言について次のように打電した。

 「天皇は握手が終ると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東条のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民の指導者として、臣民のとったあらゆる行動に責任を持つつもりだと述べた」

 この文書を最初にアメリカ国立公文書館で発見した秦郁彦氏は、「決め手と言ってよい文書」「天皇が全戦争責任を負うつもりであったのは明らかである」と指摘する。また氏は、次のような根拠も挙げている。

 「このことは、八月二十九日天皇が木戸内大臣に、『戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて、退位でもして納める訳には行かないだろうか』(木戸日記)と語ったところや、九月十二日東久邇宮首相が、連合国の追及に先立って、戦争犯罪人を日本側で自主的に処罰する方針を奏上すると、即座に反対して撤回させた事実と首尾一貫してくる」(『裕仁天皇五つの決断』)

 なお、「東条のトリック云々」のご発言にひっかかる向きがあるかもしれないが、秦氏はこう解釈する。

 「天皇がこだわったのもむりはない。東郷外相ですら無通告攻撃に傾いていたのを『事前通告は必ずやるように』と厳命したにもかかわらず、奥村在米大使館書記官のタイプミスで結果的に通告がおくれてしまったのだから、痛恨の思いは誰よりも深かったであろう。

 しかも、この時点では天皇は真相を知らされていなかったので、東条に欺かれたと信じこんでいたのが、言い訳めいた言動になったと思われる」(『文藝春秋』平成16年1月号)

(略)

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マッカーサーはアメリカ議会から、日本の天皇と戦争の責任者を見つけ


出して全員処刑しろと命令を受けていた。その中で、天皇を助けたのは


なかなか勇気のいることだったのだと思う。マッカーサーは、後で朝鮮


半島に送られ、ソ連の送り込んできた朝鮮人と戦った。そこで原爆を使い


たいと申し出て断られ、更迭された。骨太の軍人なのだ。