過去に学んで今に活かそう!シナ(china) の情報戦
昔のことを学ぶのは、なぜ大切なのだろう。ーーー昔の世界情勢は、
2006年の今とは全く違う。
今は、白人がアフリカ人や黄色人種の住む土地を植民地
にしてはならないし、人間を奴隷にしてはいけない、、そんな時代に
なった。
昔は世界中が帝国主義であり、弱い国は植民地にされた。
日本も世界の強国に習って帝国主義となり、白人に負けない国に
なろうと頑張った。
頑張らなければ日本という国は今頃どこかの国の植民地にされていた
だろう。
過去を遡り、疑問を持って歴史を見直してみると、日本の弱点が
見えてくる。
過去を学ぶということは、自国の弱点を発見し、今に活かして弱い部分
を強化するために大切なことだと思う。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、支那 (china)が作った
ニセ文書を信じた。
その時、彼は「日本、葬らざるべからず」と覚悟をしたということだ。
マッカーサーは、戦後、日本を裁くという強い目的を持って日本に
はいった。
最初アメリカは、支那のニセ文書を元にして東京裁判を始めた。
日本人も殆ど知らないそのニセ文書は、漢文と英文のもの(だけ)が
支那と欧米にばらまかれた。
日本語で読んだ人は一人もいないその文書の名は「田中上奏文」。
昭和2年6月、東方会議という国の代表を日本が集めて
開いた連絡会議の2年後にばらまかれた怪文書だ。
当時の田中義一首相が、天皇陛下に上奏した文書という形になっていて、
内容は「日本が満州、蒙古を押さえて支那を奪い、さらに世界を
征服する」という方針を田中義一首相が天皇に上奏したということに
なっている。
世界征服のためには、まず支那を、支那を征服するためには満州、
モンゴルを征服しなければならない。明治天皇がそういう意志を
持っていましたからね、という内容だ。
アメリカは当初「田中上奏文」を元にして日本を裁こうとしたのだ。
その罪状は「1928年から1945年まで、A級戦犯の28人が共同
謀議し、一貫して満州・中国・東南アジア・太平洋・インド洋などの
地域を侵略、支配すべく陰謀を企て、実行した」という、日本人も
驚く立派なものだった。
日本は、支那のニセ情報を信じたアメリカによって裁かれたのだ。
田中上奏文は、1927年7月に天皇に上奏されたということになって
いたので、日本の世界征服の陰謀は1928年1月1日からということ
になった。
最近、田中上奏文という怪文書は、ソ連で共産党コミンテルンによって
作成されたということが分かった。
―――ニセ文書である証拠は5つあるが、
一番ハッキリ分かるのは、大正11年(1922年)2月に既に死んで
しまっている山県有朋が「同年11月下旬の9ヶ国条約打開策のための
会議に出席」という部分だ。
長州閥の田中が、自分の親分の山県が死んだことを知らないはず
がない。既に死んでしまっている親分が会議に参加したと書いてある。
当時日本は、そんな馬鹿げた怪文書などどうでもいい。
そんなことはウソだとすぐ分かることだからと考えた。しかし日本は、
「死んだはずの山県が会議に出ていることになっている。ニセ文書だ」と
声をあげることをしなかった。
だから、ルーズベルト大統領はそれを信じたのだ。
当時の支那は、このニセ文書を徹底的に反日の資料として利用した。
そして欧米人は、日本を世界征服を企む不届きな国と信じこみ、
その観念を元にアメリカは東京裁判を開いたのだ。
ニセ文書をばらまいた支那と同じだけ多くの否定資料を世界に流さな
かった日本の怠慢と大らかさを大いに反省したいものだ。
日本は、支那には戦闘では常に勝っていたが、情報戦に負けたのだ。
蒋介石は、南京事件でも、新聞記者の秘密工作員に給料を払い、
支那に有利な宣伝記事を書かせた。
蒋介石はいくらでもウソの情報を流した。
―― 済南事件
1928年、山東省の済南に入った国民党の北伐軍が、日本人居留民
を襲って惨殺や略奪を行った事件を「北伐妨害のため日本軍が
日本人を殺した」と宣伝し、その事件の始まった5月3日を国恥記念日
として排日に利用した。
支那は、日本が「日支両軍の接触を容易にし、衝突を引き起こす為の
謀略だった」という文書を作って支那の歴史の資料にした。
また済南で、日本軍が一般人の服装をした支那の便衣兵から拳銃射撃
を受けたとき、日本軍が便衣兵全員を射殺したのだが、その時たまたま
国民党の外交官も巻き添えになった。
それを、「日本軍が外交官を射殺した」という宣伝を展開し、反日感情
を煽る材料にしたりもした。
この事件の実際は、北伐軍が済南に入った際、北伐軍が以前、南京で
外国人を襲った事実があったので、日本軍は日本人居留者を護るため
に守備地区を設けたところ、蒋介石が「われわれが責任をもって護る
から撤退してくれ」と言ってきた。
日本軍がそれを信じ撤退すると、1928年5月3日、北伐軍は日本人を
襲撃しだした。男10名、女2名が北伐軍に殺され、5日に9体の惨殺
された死体が発見され、その後3体発見。
暴行されたりレイプされた女性32名以上、略奪された家136軒。
被害人員約400名、被害見積額35万円9000円。(当時のお金では
相当な額)
殺され方は、手足を縛り、手斧で顔面をたたき割る。女性はすべて
陰部に棒をさされ、焼かれて白骨化し、白足袋でようやく日本女性だと
分かるものなど、「酸鼻のきわみ」だったそうだ。
支那兵は、一般人の服装をした便衣兵だった。兵隊の格好をせずに
一般人に紛れて戦闘を行う行為はハーグ陸戦規定に違反している。
そういう一般服を着て武器を持って戦うのは、国際法ではゲリラである。
ゲリラでも日本兵が応戦すれば、日本軍が悪であると支那は宣伝した。
―― 南京事件
その後、日本軍が南京に入ったときは、支那兵は日本軍の軍服を着て
日本軍に紛れ込んだ。
草履を肩から吊していないので支那兵だと分かったのだそうだ。
上海方面からの戦闘に敗れ南京に逃げ込んだ支那兵は、軍服を脱ぎ
捨て、一般市民の衣服を奪って着、市民中に紛れ込んで、陰から
日本兵に発砲してきた。
誰が支那兵か分からないので日本軍は、オドオドしているガッシリ系の
男を選んで拘束した。中には南京の町民が混じってしまったが、そ
の場合は「あの人は近所の○さんだ」と嘆願に来るので、そういう場合
は良民の券を発行して解放したそうだ。
憲兵が到着する以前に、日本軍の先発隊が約2万の支那兵を市民の
中から選び出して殺害した。そうしなければ逆にやられてしまうのだ。
南京城の門の前のトーチカには、支那兵が逃げないように足を鎖で
くくられて入れられていたそうだ。(くくられた支那兵も死に物狂いで戦っ
たので、彼らも殺されてそのまま穴の中に埋められたそうだ。)
先発隊は食糧の補給も間に合わず、民家から奪うしかなかったし、
一部の者がレイプなどの暴行をはたらき、後で軍法会議にかけられた。
捕虜を捕らえても与える食糧も無く、日本軍自体の食糧も無かった。
空の列車の車両に収容したりしたが、結局どうすることもできず、筏に
乗せて河に流したり、順番に走らせて銃撃し川に流したりした。
その合計が数えると2万人となる。
ところが支那側は、支那人が女性を殺す方法や、匪賊が人を殺す方法
で日本軍が南京で大虐殺を行ったと宣伝した。
当時の南京には25万人の市民がいた。外国人も証言している。
しかし、支那は30万人殺されたとウソを宣伝した。
支那は、日本女性が支那人に殺された写真や、朝日新聞に掲載された
通常の写真や、当時支那人が売っていたポルノ写真や、支那人がニセ
の日本兵に化けた合成写真で作ったものなどを、いわゆる
「南京大虐殺」の証拠写真とした。
写真の中の影の向きがめちゃくちゃだったり、服装が日本軍のものでは
なかったりなどの稚拙な合成写真を多用し証拠とした。
日本軍が南京に入ったのは冬なのに夏の写真ばかりあるのも不自然だ。
とにかく、写真の横に日本軍がひどいことをしたとキャプションをつければ
証拠写真になったのだ。
実際、そんな大変な混乱の中で写真を撮る者などいなかっただろうし、
南京市内に設けられた安全区には外国人もたくさんいた。
彼らと共に25万人の残留市民がいたのである。
―― また、
1927年、蒋介石の国民革命軍は南京で領事館、学校、企業などを
襲った。
支那の数百人の一般人も略奪に荷担した。日本の領事館は床板・便器・
空瓶まで略奪された。各国の外交官7名が死亡、2人が行方不明。
この事件ではソ連の指導を受けたコミンテルンが紛れて暴動を指揮
していた。
しかし支那の教科書には、革命を破壊するために南京を占領した
北伐軍に対して各国軍が砲撃を加え、支那人が2000人死んだと
書いている。その時日本は無関係だったのに、日本も砲撃したということ
になっている。
実際の支那人の死者は12人、負傷者は20人である。支那人の暴徒が
大使館を襲って略奪したことにはひち言も触れていない。
現代でも、このようにたくさんのウソが支那の歴史として広く信じられ、
反日の根拠になっている。
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日本は支那の情報戦を甘くみたのだ。支那が騒いだ以上に日本は
騒ぐべきだしニセ文書を出されたら、その倍ぐらいの文書でそれを
否定するべきだった。
現在だって、間違った史実に基づく映画を作られたら大声で否定し、
非難し、ウソを正すべく戦わなければ、それが真実と信じられてしまう
のである。
田中上奏文を「あんな稚拙なニセ文書、誰が信じるものか。神経質に
騒ぐことはないよ」と思って放っておくから、そのニセ文章を根拠にされて
アメリカから東京裁判をされたのだ。
支那(china) が、日本を不当に貶める映画を作れば、声を大にして
それを否定し、世界中に支那のウソを糾弾する文書を倍以上出さなけ
れば、今後も同じ方法で日本は悪者にされるのだ。
情報戦には神経質過ぎるぐらいの気持ちで対処しなければならない。
西洋人はニセ文章やニセの写真でも簡単に騙される。
日本人はおおらか過ぎる。日本の「言わなくても外国は分かってくれる」
という考えは世界には通用しない。
支那が変な映画を作ったら、日本は神経質過ぎるぐらいにピリピリして
激しく怒らなければならない。
支那では、ウソでも声を大きくはりあげて不特定多数の人に信じてもら
えればケンカに勝つのだ。
支那のウソに、これからも負け続けるわけにはいかない。日本が何も
しなくても、支那は世界に向けてどんどん日本を悪く宣伝している。
それが、2006年の今も起こっている現実なのだ。
この記事を書くにあたって以下の資料を参考にしました。
※ 南京事件「証拠写真」を検証する――合成、演出、ひそかな転載、キャプ
ション改竄。証拠として通用する写真は一枚もなかった――より。
東中野修道、小林進、福永慎次郎著 草思社
※ 1500年の真実:日本とシナ 渡辺昇一著 PHP研究所
※ いわゆるA級戦犯 小林よしのり著 幻冬社
※ 南京戦「閉ざされた記憶を尋ねて」元兵士102人の証言 松岡環著
企画:日中平和研究会 社会評論社(死者が35万人と支那側の意見丸飲み)
※ 日中戦争の悲劇――写真で綴る中国からの証言――
編著 馬振[牛へんに買の上に士] 陳中丹 林慧敏 柳原書店
(上記の本「南京事件「証拠写真」を検証する」に出ている捏造が証明された
写真が満載)
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「過去に学んで今に活かそう!シナ(china) の情報戦」の記事中の東方会議と
いうのは「支那の国の代表」ではありません。ーーー謹んでお詫び
申し上げますとともに訂正させて頂きます。
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注:東方会議)田中義一内閣が山東出兵(第1次)後の対中国政策を確立するた
めに開いた会議。1927年(昭和2)6月27日~7月7日まで外務大臣官邸
で開催。田中首相兼外相・森恪外務政務次官・吉田茂奉天総領事・芳沢謙吉駐
奉公使・武藤関東軍司令官・畑陸軍次官・大角海軍次官らが出席。
会議終了後『対支政策綱領』が発表され、中国における日本の権益を守るため
には出兵も辞さぬ“現地保護政策”、満蒙については個々の権益を守るだけで
なく、日本が同地域の治安維持にあたり、中国本土より切り離して独立の政権
下におく“満蒙分離政策”を強調。 いわゆる「田中メモランダム」が会議の
結論とされて中国側の排日運動を激化させた。