他人をねたむ気持ちとどう付き合う?
他人を妬(ねた)む気持ちは、嫌な感情です。
醜い自分が嫌になっても、そういう気持ちは自然と出てきてしまう
ので困ります。人間の心に罪があるかぎり、そういう悪い気持ちは
起こってきてしまうのです。
猫だって、他の猫が自分より可愛がられているのをみると嫉妬します。
自分が一番でありたいと願う気持ちは、猫でもあるということです。
わたしが一番可愛がっていたN猫ちゃんも、他の猫を触っていると、
ふすまの陰から顔を半分だけ出して見ていました。面白くなさそうな
嫌な顔をしていましたから、そんな時は直ぐにN猫ちゃんをかまって
あげて、焼もちを焼かないようにしていました。N猫ちゃんは、もう
死んでしまったけれど、今でも一番好きな猫です。
他人を妬(ねた)むのが自然な気持ちならそのまままでいるのがいいの
かと言うと、この感情は自分の顔を醜くします。ストレスがかかります。
いつもイライラしていると体調にも響きます。胃が痛くなるかもしれない。
会社でも、自分よりできる人間が褒められたり、給料が上がったり
昇給したりするのを見ると、ムラムラと妬みの感情が沸いてきたりします。
人間とは罪深いもので、他人の幸せを喜んであげるようなステキな
気持ちには、なかなかなれないものです。
そういう醜い気持ちに自分が支配されて、その想いからなかなか自由に
なれずに顔も醜くなってしまったら、どうしたらいいのでしょう?
クリスチャンなら、神さまに「こんなに悪い感情を持ってしまい、嫌な気分
です。自分では逃げられない状態です。こんなわたしのために、
神さまのひとり子のイエス様が十字架にかかって、罪の罰を身代わりに
背負ってくださいました。そして死んで三日目によみがえってください
ました。ありがとうございます。罪びとのわたしが罪を赦されて、天国に
行けるのは、イエスさまのおかげです。感謝します。こんな状態でいる
のは苦しいし、毎日相手の顔を見るのも嫌な状態で会社に行くのも
辛いです。だから助けてください。よろしくお願いします。どうぞ、
会社で同僚や上司に優しくできるよう助けてください。上司や同僚の
好意を得ることができるようにも助けてください。」と、イエス・キリストに祈
ります。そして神さまが助けて下さる奇跡を期待して待つのです。
妬(ねた)む自分を意識したら、神さまが喜ばれることは何か思い出して
みます。聖書の言葉を思い出してみます。
自分でなんとかしようと思わず、神さまにおまかせして、奇跡を待ちます。
自分は神さまに愛されているという事実や、神さまにとっては、自分は
高価で尊い存在なのだということを思い出します。神さまの基準で自分と
周りを判断し、自分が間違っていれば直すし、他人が間違っていれば
相手を責める目的では無く、赦すつもりで注意します。
クリスチャンで無い場合は、神さまの前に自分は罪がある人間なのだと
認めて、イエス・キリストが十字架にかかって死んだのは自分のためだと
信じて欲しいと思います。イエス・キリストが、人間の罪を赦すために
人間となってこの世にきてくださった神さまのひとり子だということを
信じて救われてほしいと思います。神さまは人間の罪を赦して、罪が
無い者とするために、イスラエル人に預言者を与え、聖書という「救い主」
に関する預言書を書かせられました。クリスチャンで無い人は、神さまを
信じて天国に行ける人になっておかねば、死後に裁かれる事になります。
簡単に言うとイエス・キリストを信じて罪が赦されていない人は、天国に
行けず、地獄に行くということです。神さまを信じるか信じないかは、
あなたの気持ちしだいで、死後に天国に行くかいかないかは、あなたが
選択できるのです。
人を妬(ねた)む気持ちは、心の中にある罪が原因なので、簡単に気持ち
しだいで消えてはくれません。
聖書にも、最初の人類の父と母であるアダムとエバの息子たちの
最初の人殺し事件が載っていますが、その原因は妬(ねた)みなのです。
人を妬むということは、殺人につながるということです。「あいつさえいな
ければ、、。」という思いが、すでに殺人と同じ罪だと聖書は語って
います。もちろん、実際に人を殺すのは刑事事件で、その国の法律によって
裁かれます。
大人は生きるために、働いてお金を稼ぎ、それで食べていかねばなり
ません。人を妬(ねた)む気持ちがあっても、それを隠して生きていか
ないと、自分の感情に素直に従って生きていたら集団から追い出されます。
集団から出されると、彼らと一緒に生活の糧を稼ぐ事ができなくなり、
別の集団に入るか、自分で集団を作って稼ぐかしないといけない。
嫌いな客でも、嫌いな同僚や上司がいても、大人は我慢しなけれななら
ない。わたしは高校生の時に、何人かのおばちゃんの集団を観察した事
がありますが、お互いに一人の時は、陰口を言いあい嫌っている二人の
おばちゃんたちが、公の場ではみごとに取り繕って普通にしゃべって
仕事をしているので、ぞっとしたことがあります。
大人のおばちゃんたちは演技が上手い!!
「大人とは、演技をする人間である。」と、勝手に考えていました。
大人になると、いろいろな責任を背負う事になります。家族ができれば、
その世話をする責任があり、病気の者がいれば、治るように世話をする
必要があります。自分の世話もしなければいけない。
人を妬むのは、自分と相手を比べて、明らかに自分の方が上か、優秀
な人間であるのに、他人にはそう見えず、自分が正しく評価されて
いないという場合に沸き起こる、何ともいえないイライラした感情です。
そういう場合は、「神さまは見ている。」「誰かが、自分の価値を知って
いる。」「他人よりも自分が良く知っている。」等、神さまに対する信頼
の気持ちと、味方になってくれる友人、自分が間違っていないという
自信が必要です。
自分の評価と他人が下す評価が一致しないので、腹を立てているわけです
が、自分の基準が社会にマッチしていないのかもしれない。その職場や
家庭では、基準が狂っているのかもしれない。
何を基準とするかで、全ては決まると言っていいでしょう。世の中の基準は
ころころ変わります。戦争中は、日本男子は天皇陛下のために死ぬのが
当たり前とされていたそうです。世界中が軍国主義であり、アジア人は
西洋人に植民地にされるのが、当たり前な時代だったのです。そういう
時代に武器を持たずに西洋にバカにされていたら、今頃日本はどこかの
国の植民地になっていたし、アジアもアフリカもずっと植民地だったで
しょう。時代の基準は変わるのです。しかし、変わらないものがあります。
人間の心の中の罪を醜いと感じる気持ちです。美しいものと醜いものを
見分ける心や、善と悪を見分ける気持ちは変わりません。
ただし、そういった良心や愛情や善意も、国や民族によってカタチが
変わるし、良心は、罪を犯し続けるとバカになります。
基準がゆるくなります。
自分で基準をゆるくしないと、心に責めがずっとある状態では生きるのが
辛くなるからです。聖書には、人間は神さまの前にどういきるのが正しい
のかという基準が書かれています。モーセという人は、エジプトからイスラ
エルの民を連れ出し、紅海を渡って今のイスラエルの土地に向かう時、
シナイ山で神さまに十戒という石の板に書かれた訓戒を神さまから
もらいましたが、イスラエル人はそれを守れませんでした。
イスラエル人は、人類の代表として神さまに選ばれて試験を受けた民族
ですが、人間は神さまの基準に達することは不可能だということを神さま
は教えたかったのです。人間は、神さまの基準では、死後に天国に行く
事はできないのです。だから「救い主」が必要なのです。
それを分からせるために、神さまはイスラエル人に十戒を与えたのです。
人を妬むということは人殺しと同じ罪です。神さまにとっては小さい罪も
人殺しという大きな罪も同じ罪です。一滴の猛毒が入ったコップと、
100%猛毒が入ったコップとでは、どちらが危険なコップでしょうか?
どちらも危険ですね。一滴でも飲めば死ぬなら、そのコップは危険なの
です。大人は、演技ができます。心の中の感情を押し殺し、表に出さずに
頑張る事ができます。家族を養う責任があるし、自分が属する集団で
金を稼いで、食べていかねばならないからです。
心の中の妬(ねた)みはそのままでいいのでしょうか?
神さまの基準で自分の心の中の思いが正しいのか考えてみてください。
道徳的に、良心的に、また聖書的に自分が正しいという確信があれば、
会社や社会にそれを訴えて自分が正しく、相手が間違いであると声を
あげるのが正しいのです。そのために集団から追い出されるという
リスクを負うが、それができなければ演技し続ける。
現実と折り合いをつける。ようするに我慢する。
そういう会社、社会、家庭、集団なのだとあきらめ、自分が間違っている
と感じた相手の基準を受け入れる。または過ちが改善される事を願い、
そのために何をするべきか教え、根回しや地道な啓蒙活動を続けてその
場所の間違った基準を変えていくかです。
自分の基準が間違っている場合もあるので、他人の意見も聞く耳を
持たねばなりません。
聖書の基準に照らし合わせてあなたが間違っていないなら、自信を持って
いれば、そんなに腹もたちません。
自信が無いが、「あいつより正しい、あいつより上だ。」と思っている
時が、一番妬みの気持ちがわくのだと思います。
相手があまりにも、あなたより素晴らしい人物ならあなたは妬むことも
忘れて、その人を褒めるでしょう。
妬みがわく時、あなたのレベルと相手のレベルは、ほぼ同じなのだと
思います。その差はあまり無いのです。ただ、あなたが認めてもらい
たい人の基準があなたとは違うのです。
あなたは他人の基準を変えることができるでしょうか?
変えようと努力するか、相手の基準に合わせるよう努力するか、
またはあなたを認めてくれる人のところに移動するか、または、
猫たちのようになわばりを決めて、争わないよう互いに深く立ち
入らないようにするしかないと思います。
他人を変えるよりも、自分が変わるように努力した方が簡単です。
でも、努力しなければ持続できない関係は「合わない」関係なので、
努力しなくても良い関係を保てる「合う」人を探す方が楽です。
猫同士でも気が合わない場合があります。世の中、あなたと合う人
ばかり集まっている集団というものはなかなか無いものです。
家族の中にも合わない人、合う人が出てくるのです。
全ての人間は、心に罪を持って生まれた罪びとです。お互い赦しあう
ことなしには、狭い空間で生きていくのは大変です。
あなたが属する集団のあなたが嫌いな合わない人のことを、
「あの人とは合わないのだ。」と認めて、赦すのです。また、あなたが
認めて欲しいのに認めてくれず、他の人を認めてあなたに妬みを
引き起こさせる人を、「違う基準なのだ。」と赦すのです。
なぜなら、神さまがあなたの罪を赦すと言っておられるからです。
生まれてから死ぬまで犯す罪を赦すと、神さまが聖書から約束して
くださっています。
神さまはあなたを愛しているから罪を赦されるのです。そのために
神さまはひとり子を十字架につけてあなたの地獄の罰をひとり子に
背負わせたのです。その愛に免じて、あなたの嫌いな他人のことも
赦してあげましょう。欲しいものがあれば、世界の創造主にお願いして
みてください。その前に、罪を赦してくださいと祈ることをお忘れなく。
罪が赦されていない人間と神さまは、「無関係」という関係です。
本当は、あなたを創られた創造主はあなたの父親のようなもので、
あなたは子供のような関係です。
まず、その関係に戻るよう、罪を赦してもらう必要があります。そのために
神さまはひとり子の神さまをこの世に遣(つか)わされたのです。