レバノンって、どんな国?
その後勢力が弱体化し、アッシリア帝国 に飲み込まれた。
その後民族 としてのフェニキア人は消滅したと言われている。
古代末期にはローマ帝国 に征服され、中世 にはイスラム世界 に
組み込まれた。
レバノンは歴史的にはシリア地方 の一部であったが、山岳地帯は
西アジア地域の宗教的マイノリティ の避難場所となり、キリスト教 の
マロン派 、イスラム教 のドルーズ派 がレバノン山地に移住して、
オスマン帝国 からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。
19世紀 頃からマロン派に影響力を持つカトリック教会 を通じて
ヨーロッパ 諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成
し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義 の中心地ともなった。
第一次世界大戦 後、フランス の委任統治 下に入り、キリスト教徒が
多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り
離されて、現在のレバノンの領域にあたるフランス委任統治領レバノンと
なった。
この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、
東方正教会 と、カトリック、プロテスタント を合計したキリスト教徒 の割合
が35%を越え、シーア派 、スンナ派 などの他宗派に優越するようになった。
現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。
第二次世界大戦 中にレバノンは独立を達成し、金融 ・観光 などの分野
で国際市場に進出して経済を急成長させたが、PLO の流入によって
微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975 ~76年 にかけて内戦 が
発生した(レバノン内戦 )。
隣国シリア の軍が平和維持軍として進駐したが、1978年 にはイスラエル
軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠
する乱世となった。混乱の中で、周辺各国や米国 や欧州、ソ連 など
大国の思惑も入り乱れて、内戦終結後も断続的に紛争が続いたため、
国土は非常に荒廃した。また、シリアやイスラム革命を遂げたイラン の
支援を受けたヒズボラ など過激派が勢力を伸ばした。
1982年 、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍は
南部から越境して再侵攻、西ベイルートを占領した(レバノン戦争・ガリ
ラヤの平和作戦)。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地
帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。
この混乱を収めるために米 英 仏 などの多国籍軍が進駐したが、イス
ラム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い、一部でシリア軍と
米軍の戦闘に発展した。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入
の困難さを世界へ示すことになった。
1990年 にシリア軍が再侵攻、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に
置かれた。シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズ
ボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけた。
シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる
平和)」とも呼ばれる。現在も政府高官を含めシリアの影響は強い。
1996年 にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行と
したイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。
この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国際連合 フィジー 軍の
キャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。イスラエル軍は
2000年 に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、
イスラエルに対する攻撃を行っている。
2005年 2月14日 にレバノン経済を立て直したラフィーク・ハリーリー 前
首相 が爆弾テロにより暗殺 、政情は悪化し、政府と国民との軋轢も
拡大した。その要因となったシリア軍のレバノン駐留に対し、国際世論
も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に
撤退した。
2006年 7月にヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は
ウィキペディア辞典より。
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シーア派は南部に住んでいて、もろにヒズボラのために迷惑を
こうむったらしい。レバノンはシリアに前首相を暗殺された弱い国と
いうイメージがある。シリアについて分かりやすい記事があったので
紹介します。
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以下は 26日、LBCテレビに出演していた
ティールおよび南部地区のシーア派ムフティ
(ムフティとは宗教令「イフター」を発出する権限を持つ高位聖職ポスト)
アリ・アミーン師のコメント。
ヒズボッラーが第五次レバノン戦争を「歴史的・戦略的な勝利」と
位置づけていることに対して
「これだけレバノン国民に災厄をもたらしておいて、何が勝利なものか。
なるほど、ヒズボッラーの戦士は勇敢に戦って、イスラエルの攻撃を
しのぎ、敵にも損害を与えた。
しかしその何倍もの損害をレバノン全体が蒙ったのだ」
LBCはLF系列で、反シリア、反ヒズボッラーを基本姿勢とするメディア。
またアミーン師は内戦中にヒズボッラーやアマルなどの政党が台頭し
たため、かつての権勢を失ったシーア派名家の出身。(略)
アミーン師はヒズボッラーが人質拉致作戦を政府とも調整せずに実行
に移し、レバノンを戦争に引きずり込んだと批判する。
「これは市井の人が言っていたことだ。
『世界で一番高価な人間はだれか? それはイスラエルの獄中に
居るレバノン人政治犯だ』。ヒズボッラーはわずか3人の政治犯の釈放を
勝ち得ようとして、イスラエルに今度の戦争を引き起こす口実を与えて
しまった。その結果、1000人以上が殺され、何十億ドルもの損失を
蒙った」。
なお、26、27日にはナスラッラー議長とナンバー2のナイーム・
カーシム師が潜伏先で相次いでメディアのインタビューに応じ、
「イスラエルの出方を読み誤った。人質拉致作戦に対して、
イスラエルは限定的な空爆で報復するだけであり、紛争は最長で
3日間だと判断していた。まさかあれほど激しく野蛮な攻撃をしかけて
くるとは思わなかった」と、ヒズボッラー指導部に状況判断の誤りが
あったことを率直に告白している。
「シーア派以外の人は、シーア派はみんなヒズボッラーを支持して
いると考えているが、決してそんなことはない。
シーア派国民であっても、ヒズボッラーが国家内国家として、独自に
武装をし、勝手に戦争を始めることについてはおかしいと思っている。
ヒズボッラーの武装継続か、或いはヒズボッラーは武装解除し、
南部においても国軍に治安維持を委ねるか。
いま国民投票をすれば、シーア派国民の圧倒的多数が後者を選択
するはずだ」、アミーン師はそう断言する。
アミーン師の番組を見た後に乗ったセルビスの運転手は、こちら
から尋ねたわけでもないのに、「俺は南部の最前線の村出身のシーア
派だ」と名乗った上で、「ハリーリ派やLFなど、反シリアの連中はレバ
ノンをアメリカやイスラエルに売り渡そうとしている。
そうはさせない」と力説する。ダーヒヤやシヤーハでも、ヒズボッラーを
断固支持するシーア派に何人も会った。しかし、何の罪も無いのに戦
争に巻き込まれ、家を潰され、職を失い、家族を奪われたシーア派
住民の中には、ヒズボッラーに対する恨みの声があってもおかしくない。
周囲の手前、大きな声で言えなくとも、アミーン師に内心共鳴する人
たちだって少なくないはずだ。
実際のところ渦中に居るシーア派の人々の真情を、単純化して表現
することは難しい。しかし、ハリーリ暗殺事件以来、レバノン国民の大多
数が反シリアに傾き、レバノン一国主義的な立場をとる中で、シーア派
は概ね反対の立場をとり、逆にシリアやイランに傾斜してきたのは事実だ。
とすれば、やはりアミーン師より、上述のセルビス運転手の方が、シーア
派の最大公約数的な意見の持ち主と理解すべきだろう。
どうしてそうなのか? そこを理解するために、レバノンという国家の
成り立ちと、そのレバノン国家におけるシーア派の地位について、一度
振り返っておきたい。
「レバノン」の語源はセム系言語で乳白色を意味する「ルブナーン」。
赤茶けて乾燥した荒野が広がる中東の中で、雪に覆われた3000メ
ートル級の高峰は、驚嘆の対象だった。そこでこのレバノン山脈地帯を
指して「レバノン」と呼ぶようになった。
おわかりであろうか? 元来「レバノン」とはレバノン山地のことであり、
トリポリやベイルート、サイダ、ティールなどの海岸部、あるいはバアル
バックなどベカー高原は、「レバノン」ではなかったのだ。
このレバノン山地の元の住民はイスラームの一派(だが、正統派の
スンニ派からは異端視された)のドルーズ派と、キリスト教の一派の
マロン派だった。中東ではキリスト教の主流はギリシア正教など東方
正教会だから、カトリック系のマロン派も、中東キリスト教社会の中では
異端視されていた。峻険なレバノン山地は異端視されたこの二宗派に
とって、安住の地だったのだ。日本で言えばさしずめ平家の落人部落か、
隠れキリシタンの里と言ったところか。
第一次世界大戦後、ここを委任統治したフランスは自国と同じカト
リックのマロン派を中心に、つまりレバノン山地を核にして、独立国家
レバノンをつくる。その過程で、トリポリやベイルートなど、海岸のスンニ
派の都市、ベカーや南部などのシーア派地区も「レバノン」に編入された。
こうして、複雑極まりない多宗派混交のモザイク国家、レバノンが生まれ
た(正式の独立は第二次世界大戦中の1943年)。
建国当初、この新国家の中核を担ったのは、レバノンでも最も都市
化され、教育水準も高いマロン派とスンニ派だった。大統領はマロン派、
首相はスンニ派というこんにちに連なる不文律もこの時期に生まれた。
人口で三番目(当時)に多かったシーア派は、国会議長ポストを与え
られる。しかしベイルートを中心に政治・経済が発展していく中、シーア
派農民が暮らす僻地のベカーや南部ではインフラ整備が遅れた。
中産階級も育たず、レバノン社会におけるシーア派の地位は人口比の割
には不当に低いままだった。レバノン国家が発足した当初から、シーア派
社会はスンニ派やマロン派が主導する国家に対して、根本的な不信感
を抱いていた。
レバノン国家に対するシーア派国民の不信感と恨みは、パレスチナ
問題の進展とともに一層深まる。難民となったパレスチナ人が住み着き、
ゲリラの拠点となり、それ故にイスラエルの攻撃にさらされたのはもっぱら
南部だったからだ。南部のシーア派住民は、我が物顔に振舞うパレスチナ・
ゲリラの横暴と、問答無用で報復してくるイスラエル軍によって二重に痛め
つけられる。そしてレバノン国家はシーア派住民を、PLOからも、イスラエ
ルからも守ってくれなかった。
ヒズボッラーは1982年のイスラエル軍侵攻の後に生まれた。自分の
土地を占領されたシーア派住民の武装闘争と、革命の輸出先を探す
イランと、イスラエルや米国への反攻の機をうかがうシリアの三者の
利害が一致したのである。ヒズボッラーはその後18年の武装闘争を
戦い抜き、南部を解放した。
武装解除に頑として反対するヒズボッラーの支持者は、こう言う。
「武装解除すれば、レバノン国軍が本当に自分たちを守ってくれるのか?
レバノン政府はイスラエルに捕まった政治犯を釈放してくれるのか?」
イスラエルの脅威に直接さらされているのはシーア派だ、スンニ派や、
キリスト教徒、それにドルーズ派は、結局のところ安全地帯に居るで
はないか…シーア派国民の心の奥底には、そんな根強い被害者意識
がある。それを解消しない限りシーア派国民と他の国民との間の意識
のギャップはなかなか埋まらないだろう。
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安武塔馬(やすたけとうま)
レバノン在住。日本NGOのパレスチナ現地駐在員、テルアビブと
ベイルートで日本大使館専門調査員を歴任。
現在は中東情報ウェブサイト「ベイルート通信」編集人としてレバノン、
パレスチナ情勢を中心に日本語で情報を発信。
<http://www.geocities.jp/beirutreport/
> 著作に
『間近で見たオスロ合意』『アラファトのパレスチナ』(
上記ウェブサイトで公開中)がある。