中国のこようほうさんは、中曽根氏にあって、、、
胡耀邦(こようほう、1915年 11月20日 -1989年 4月15日 )は、元中国共産党 中央委員会主席 ・総書記 。湖南省 瀏陽生まれ。
党の青年組織である共青団第一書記、陝西省 党委第一書記などを歴任したが、文化大革命 (文革)が始まると1967年 に実権派と批判され失脚。文革後は、75年科学院副秘書長、77年党中央組織部部長、中央党校副校長。78年政治局委員。79年中央宣伝部部長を経て、80年に党総書記に就任。党中央組織部長時代には右派分子の名誉回復を精力的に行っている。
78年12月の11期三中全会以後、鄧小平 のもとで文革の清算と改革開放政策が進められる中、80年9月、党主席・首相だった華国鋒 は経済政策や文革への姿勢などを批判されて首相を辞任し、その後継に趙紫陽 が就任していたが、さらに81年6月に党主席も辞任すると、胡耀邦は党主席に就任した。
1983年 11月に訪日、中曽根康弘 首相と首脳会談。友好関係を築く。日中友好二十一世紀委員会の設立に合意し、また日中友好四原則を確立させ、以降、日中間の相互理解を深めるための青年交流事業を行った。なお、中曽根がこの年の靖国神社 参拝を取りやめた理由を、親日派である胡が失脚する可能性があったからだと述べている。
百花斉放・百家争鳴
82年9月には党規約改正によって党主席制が廃止されて総書記制が導入されると、党トップの総書記に就任し、改革開放路線と自由化路線を打ち出した。この頃、胡啓立 (政治局常務委員)ら、胡耀邦を中心とした共青団グループが改革派として活躍。現総書記の胡錦涛 も胡耀邦に連なる共青団出身 である。86年5月には「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱して言論の自由化を推進した。
しかし、9月の六中全会では、胡の政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は保守派、長老グループらの批判の矢面にさらされた。こうした状況を背景に、安徽省合肥から始まった学生デモは北京 、上海 など全国に波及。方励之 、劉賓雁 、王若望 らの党員知識人が学生デモを積極的に支持した。
胡耀邦はついに翌87年1月16日の政治局拡大会議で辞任を強要された。罪状は集団指導原則に対する違反と政治原則問題での誤り、つまり「ブルジョア自由化」に寛容だったため、さらには独断で日本の青年3千人を招待したことも挙げられた。11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に選出された。
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結局中曽根氏の思いやりは、なんの益にもならず、
こようほうさんは失脚した。