ドリームボックス 殺されていくペットたち
現在日本では、毎年40万もの命が行政の手によって殺害されている ―― そう書くと、大抵は「嘘だろう」と反応する。
だいたい行政が殺害するとはどういうことか。目立つところで、自殺は年間3万人を超える深刻な問題だが、40万にはだいぶ足りない。交通事故死は年間1万人を切っている。がん、心臓疾患、脳血管疾患は、日本人の三大死因だが、これらを「行政が殺害する」と表現するのは無理がある。
答えを言うならば、40万人ではなく40万頭だ。人間ではなく、各県の動物愛護センターで毎年処分されるペットの頭数である。
日本には動物愛護管理法という法律があり、それに基づき各都道府県には動物愛護センターが設置されている。センターの機能は、犬猫をはじめとしたペットの適正管理であり、飼い主にとって不要となったペット、捨てられたペットなどは、ここに集められて法に定められた「5日以上」の間、新たな飼い主を待つ。しかし、飼い主が現れることはまずない。大抵はそのまま処分される。処分 ―― 正確には殺処分だ。炭酸ガスによって窒息死させられ、死体は焼却処分となる。
本書は、日本全国の動物愛護センターを取材した内容を、実録小説に仕立てたものだ。架空の県の動物愛護センターを舞台としているが、登場するエピソードはすべてが事実に基づくもののようだ。ペットの殺処分という感情的反発をも引き起こしかねないテーマを扱っているので、著者は取材先に配慮してこのような形式を選んだのだろう。
著者は、動物愛護センターに現れる様々な社会の歪みを、淡々と、しかし情け容赦なく描き出していく。送られてくる動物は、そのほとんどが犬と猫。本書には主に犬に関するエピソードが集められている。
犬は敏感に自分の運命を察する。職員が生殺与奪の権限を持っていると見るや、従順に従い、顔を出すと「殺さないで下さい」と言わんばかりの瞳で見つめ、吠える。野良犬など、飼い主の意志が確認できない犬は5日間をセンターで過ごすが、飼い主が「処分してくれ」と連れてきた犬は即日ガス室で殺処分される。殺処分にいたるプロセスは、詳細に記述されている。
本書のタイトルである「ドリームボックス」とは、ガス室に付けられた名称だ。登場人物の一人が、「苦痛を少しでも和らげて“眠るがごとく”と祈る気持ちから、ドリームボックスと名付けられたこの装置が登場した」と説明する。
本書は、さりげなく我が国の動物行政の歴史についても解説していく。かつて日本では、毎年100万頭の動物が殺処分されていた。ペットの避妊手術が普及していなかったことと、野良犬、野良猫の集団が多数存在したこととで、人の管理が及ばないところでの繁殖率が高かったからだ。特に野良犬は狂犬病を媒介することから、保健所が積極的に駆除していた。もちろんドリームボックスなどはなく、職員がバットで叩き殺していたのだという。
このような経緯を知ると、ドリームボックスを使った年間40万頭の殺処分もやむを得ないのかという気持ちになる。狂犬病が流行する危険を、バットで殴り殺して防いでいた時代に比べれば、今のほうがずっとましではないか、と。
しかし、登場人物の一人が語る言葉で、読者は、かつてとは大きく状況が変わっていることを知ることになる。
「あのころと今では、殺処分する犬の質がまるで違う。昔はさ、犬っていえば、いかにも野良犬っていうかんじで、よだれ垂らして、毛は汚い。臭いものがほとんどだった。いまはそんな犬はセンターには入らない。みんな元ペット。雑種もいるけれど、多くは血統書付き、ペットショップで結構な値段で売っていたものだよ」。
いったいどんな人が、どのような理由で、血統書が付いているようなペットを、動物愛護センターに送り込んでいるのか ―― これこそが本書の白眉である。
まず、年齢層や社会的なステータスを問わず、明らかに我が国には生命の尊厳に対して鈍感かつ無責任な人々が一定数存在する。彼らにとってペットは身勝手かつ一方的な愛情の対象だ。飽きてしまえば命ある存在であるペットを、壊れたおもちゃのように捨てる。本書は、動物愛護センターにおけるその実例を拾っていく。
本書に登場する、自分の飼い犬を探しに動物愛護センターにやってきて、飼い犬が見つかったにもかかわらず「こっちの犬のほうがいい」と別の犬の持ち帰りを希望する若い夫婦の話は、背筋が凍るほど恐ろしい。彼らにとってペットは命あるものではなく、交換可能なおもちゃなのだ。
しかし、もっと恐ろしいのは、そのような「どこか壊れた人」の周辺に、ごく普通の、ほんの少しだけ思慮の足りない人たちがいて、やはりペットを死へと追いやっているということだ。子供が拾ってきた猫をもてあまし、子供の知らないうちに動物愛護センターに連れてくる母親がいる。「大きくなり過ぎて、飼えなくなった」と、ゴールデンレトリバーの引き取りを希望してくる老夫婦がいる。
そしてなによりも、「きっとどこかで生きていけるだろう」という自己欺瞞とともに動物を捨てる多数の人々がいる。「自分が殺した」という良心の呵責から逃れる、もっとも安易な手段である。捨てられた動物は野生化して生きていくのではなく、結局誰かの手をわずらわせて動物愛護センターへと回される。動物愛護センターに自らペットを持ち込むのは、まだ責任ある態度なのだ。
我々は日々、家畜を殺して解体し、その肉を食べて暮らしている。にもかかわらず、なぜこれほどまでにペットの殺処分を巡る話が陰惨な色調を帯びるのか。動物を殺すという点では同じではないか。
それはひとえに、ペットの殺処分が、我々の心がけとちょっとした行動で避けられる問題だからだろう。「愛玩動物」という言葉からも分かるように、ペットはまず愛情の対象である。愛情には責任が伴う。ペットを飼うということは、その生命に全面的な責任を負うということでもある。その覚悟なくしてペットを飼うべきではない。
ところが愛という感情は気まぐれで衝動的であり、比較的簡単に歪む。歪みを正すのは理性だが、愛が発生するその場で理性を働かせるのは容易ではない。ペットショップの店頭で子犬を見て「わあ、かわいい」と歓声を上げたその瞬間、その人の脳裏に、「子犬がいつまでも子犬でいるわけではない」「子犬といえども食べ、吠え、運動を要求し、排泄する」「子犬を飼うということはいずれ老犬を看取るということだ」という理性の声が響くことはまずないだろう。
しかし、そこで理性を働かさねばならないのである。
食べるために殺すことは生きていくための宿命であり、逃れることはできない。一方、ペットの殺処分は無用の殺生であり、避けうるものなのだ。
本書の後半では、動物愛護センターのもう一つの顔である「子犬の譲渡会」が描かれる。動物愛護センターに連れてこられた犬のうち、生後3カ月以下の子犬は、去勢の上で犬の飼育を希望する人に譲渡される。もちろん、希望者が現れなければそのまま殺処分となるので、子犬たちにすれば生きるか死ぬかの運命の分岐点だ。同時に、犬の飼い主を目指す人にとっては、自分の覚悟を試される場でもある。
本書に掲載された、「子犬の譲渡を希望される方に6つのお願い」。
1.終生飼っていただけますか
2.犬を飼うことについて、ご家族が全員賛同していますか?
3.犬を飼える環境はありますか?
4.転勤や引っ越しの見込みはありませんか?
5.経済的に余裕はありますか?
6.周囲に迷惑を掛けずに飼えますか?
ペットを飼うということは、同時に重い責任を負うということでもあるのだ。
正直なところ、読むほどに気が滅入ってくる本だ。ここに描かれるのは、まったく立派ではない日本人の姿である。命を軽んじ、意志は弱く、感情に流され、自分の落ち度を指摘されると逆上する、そんな我々の肖像だ。
最近、藤原正彦「国家の品格」(新潮新書)に代表される、日本の伝統を称揚する書籍が売れている。多くの読者は日本の優位性を確認することに快感を感じているのだろう(余談だが、山野車輪「嫌韓流」[晋遊舎]のような、近隣諸国の欠点を指摘する書籍のベストセラー入りは、「国家の品格」が売れていることと表裏一体だろう)。
だが、気をつけなくてはいけない。称揚されているのは伝統的価値観であり、我々自身ではない。
そして、今現在の日本人の実像は、本書にこそはっきりと現れている。教育現場で叫ばれる「命を大切にする教育」という言葉が、悪い冗談にしか思えないほどに、さりげなく命を粗末にする、そんな我々の姿がここにはある。
立派な日本人を指向するならば、目指す目標と同時に、「駄目な日本人」の現状把握が必要となる。
本書は、「国家の品格」を「まったくその通りだ」と鼻息荒く読み終えた人こそ読むべきであろう。より良き日本人となり、よりよく生きようと思うならば、まずは自分の抱えるろくでもなさを直視する必要がある。
本書は、今現在の日本を生きる我々のろくでもなさを直視することに成功している。視線を背けなかった著者の勇気を称えたい。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/bookreview/05/
これからガス室に入れられて殺されようとする動物たちは
係員によって抱かれる。すると、動物たちは喜ぶのだそうだ。
人間に抱かれることを喜ぶのだが、連れて行かれる先はガス室だ。
その様子が哀れさをさそい、何とも言えず辛いのだと、係員の人が
テレビで言っていた。