韓国と北朝鮮 | 日本のお姉さん

韓国と北朝鮮

韓国と北朝鮮

  韓国人の日本評に「日本人は物まねが上手いだけだ」というのがある。

これは非常に 面白い表現であって、別の言い方をすれば、韓国人は

技術にしろ、文化にしろ「物ま ね」が可能と考えているということである。

それが本当に可能かどうか棚上げにするとし て、逆にいえば、「韓国人は

物まねが下手である」となる。

  では、なぜ韓国人は「物まねが下手」なのか? その疑問に答える前に

朝鮮半島にあ る二つの国家、韓国と北朝鮮が生まれた経緯(いきさつ)

から始めよう。

  第二次世界大戦の終結のわずか5年後、1950年の6月朝鮮戦争が

勃発する。ソ連 の支援を受けた北朝鮮が韓国に雪崩れ込む。

9月アメリカ軍は仁川に上陸し、敗走する北朝鮮軍を追って北朝鮮に侵入。

北朝鮮軍は戦線を立て直し、押し戻す。そして38 度線で休戦する。


れは、北朝鮮軍に よる韓国人の虐殺である。北朝鮮は虐殺するほど韓国人

を憎んでいたのか? これは 考えにくい。日本の敗戦を契機に南北に分断

されたのであって、936年の高麗による半島統一以降、李朝朝鮮として同じ

国民であった。北朝鮮は韓国の解放をスローガンに戦争を行っているのだから、

虐殺より宣撫工作の方が効果は高いはずである。

  もともと、この戦争の発生と経過はかなり不思議なものであった。1

945年8月15日、 日本が連合国側に降伏する。日本はすでに、原爆、

潜水艦による海上封鎖、空襲で戦争遂行が困難になっていた。アメリカは

日本攻略のために九州や九十九里浜への上陸作戦を計画していた。

あと1年以上の戦争と犠牲を覚悟していた。そこに突然の降伏調印。

アメリカにとって晴天の霹靂(へきれき カミナリ)。寝耳に水。

  この頃になると、ソ連とアメリカの関係はだいぶギクシャクしてきたが、

まだ冷戦状態ではなかった。ソ連も慌てて、朝鮮半島を南下する。

それで38度線を境に、北をソ連が、南をアメリカ軍が、それぞれ日本軍の武

装解除をすることにした。つまり、日本の替わりに朝鮮を占領したのだった。

して、それぞれに独自の政策を展開する。


あった。それに対し政治家が呼応し、武力北進を明言する者もでる始末。

あまりに過激なので、アメリカ軍は韓国にあまり最新式の武器を与えな

かった。

  ところで、ソ連もアメリカもしばらくは米英ソ中による4国統治が現実的

であり、政治政体が固まったところで独立させようと思っていた。

しかし、北の金日成、南の李承晩、金(注1)などが、入り乱れての政争。

これに軍隊の反乱が拍車を掛ける。各地でクーデターや争乱が頻発した。
  困り果てたアメリカが交渉相手に選んだのは、なんと朝鮮支配の元凶

とも言える朝鮮総督府であった。朝鮮総督府には日章旗がはためき、

9月9日に正式な降伏文書が調印されるまで、実質的な事務作業は継続

される。ここで、注意しなければならないことは、韓国の支配をアメリカ軍が

朝鮮総督府から引き継いだことである。アメリカ人は韓国人に統治能力が

ないと判断したのであった。

  その頃、日本にいた朝鮮人は自分達は、敗戦した日本人でもなければ、

統治する連合側でもない、それら以外の「第三国人だから法に縛られない」

などと詭弁を呈し、略奪、強盗、など欲しいままに行動した。

政府機構の崩壊した日本の警察は手も足もだせず沈黙したまま。そこで

国民を守ったのは、なんと、いわゆる「ヤクザ」であった。

石原都知事が言って波紋を呼んだ三国人とは、「法を守らない傍若無人な

連中」という意味でる。

  いずれにしろ、混乱を収拾するのではなくチャンスと考え、混乱

助長させる韓国人を見て、アメリカ人は呆れ果てたことは間違いない。

統治能力がないと断定されても自業自得である。

むしろ公正で、正確な判断であるといえる。

  そして、運命の1950年1月12日。米アチソン国務長官がアメリカの

防衛線は、フィリピン-沖縄-日本-アリューシャンを結ぶ線だと発言する。

失言だといわれているが、アジアや朝鮮半島への意識が低かったのかも

知れない。いずれにしろ朝鮮半島は含まれていない。

南北統一を考えていた北の金日成は小躍りする。

アメリカのお墨付きが出たのだ。これに乗らない手はない。1950年6月25日、
いそいそと金日成と北朝鮮軍は韓国に侵入した。アメリカは暴挙だと激怒した。

面食らったのが、北朝鮮とソ連と中国。

てっきりアメリカの了解事項だと思ったのに。ソ連も中国も国連でアメリカを

非難した。アメリカは聞く耳持たず。国際連合を動かして、国連軍に仕立て

上げた。でも、実質はアメリカ軍。

  開戦3日後の27日にはソウルが陥落し、韓国軍は敗走に敗走を重ねる。

というか、実際には、すでに韓国軍は軍隊の体(てい)をしていないのであった。

逃げまどう民衆と じであった。韓国政府はプサンまで撤退し、北朝鮮は

大邱まで接近した。韓国は風前の灯火になった。
  9月15日にアメリカは仁川上陸を決行する。ここは干満の差が激しく

上陸作戦には不向きだったが、第二次世界大戦を経験した軍人が多数残

っていたため成功することができた。

  後ろを突かれた北朝鮮軍は撤退を始める。国連軍は北上し、38度線を

越えてもさらに進軍する。翌月の10月26日元山付近に国連軍が上陸し、

11月24日には北朝鮮のが事実上の敗戦に直面する。
  これを支援したのが中国で、人民志願軍を半島北部に集結させて一気に

攻め込んだ。戦線は再び南下し、翌年(51年)1月25日にはソウルを越えた

地点まで到達する。態勢を立て直した国連軍は、ふたたび戦線を押し戻し、

二転三転したあと53年7月27日に休戦協定が成立する。

  休戦協定が成立したあと、戦闘は停止して38度の軍事境界線を挟み

南北に非武装地帯が設けられた。この戦争で、中国・北朝鮮側の死傷者

140万人、国連軍・韓国軍の死傷者120万人、非戦闘員の犠牲者200万人

以上がでたと推定されている。

  この休戦協定がこれまた実に不思議なものである。ソ連の提案を受け、

北朝鮮・中国軍と国連軍の間で会談が行われた。「単独北進」を主張する

韓国を除く三者が合意に達し、休戦協定に調印する。
  事実上、戦争遂行能力のない韓国が戦争継続を訴えたのである。

しかも、戦争当事者の韓国を排除して、休戦協定が成立した。国連軍

は実体はアメリカ軍であることは間違いないが、同時に名目上は国連軍である。

国際社会だといえよう。それが韓国を除外した。

この〝韓国の行動と、韓国に対する扱い〟。恐ろしいことに、国としての扱いを
外れているのだ。まともな国家として相手にされなかったのである。

もっとも、中国から同様の扱いをしていたが…………。

  いかに自業自得とはいえ、このことが韓国人の大きな精神的な傷に

なっていることは否めない。これが、韓国の生まれた時の状況である。

このことは記憶するに値しよう。

 注1)
 ・李承晩(り・しょうばん 1873~1965)
  解放後の韓国の初代大統領。60年4月革命により、退陣する。
 ・金日成(きん・にちせい キム・イルソン 1911~94)
  本名成桂。31年に共産党に入党し、抗日運動で頭角を顕わす。北朝鮮臨時人民委
  員会委員長。
 ・金九(キム・グ 1876~1949)
  三・一運動後、中国で臨時政府を指揮する。解放後に李承晩と対立し、暗殺される。

http://www2.ttcn.ne.jp/~kobuta/bunnka/k0.htm