尖閣諸島の持ち主である古賀氏
古賀辰四朗(福岡県出身)氏の開拓事業
魚釣島にはかつて鰹節工場があり、多い時は99戸、 248人が住む古賀村と呼ばれた村落がありました。 古賀氏は福岡県八女郡山内村(今は八女市山内)の人間で、 一八五六(安政三)年の生まれ。一八七九(明治十二)年に 二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の 古賀商店を開いています。 |
古賀氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、夜光貝 などの貝殻をボタンの材料として、神戸に売って(年間 一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店をだした。 その翌々年の一八八四(明治十七)年に尖閣列島を探検して、 その有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、 ベッ甲などの事業に着手。一八九五年、古賀氏は本籍を 福岡から沖縄に移し、「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、 平民古賀辰四郎」となり、本格的に事業にとりくんだのである。 以下は高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」の第7章尖閣列島の あれこれ(6)日清戦争とバカ鳥の島からの抜き書きです。
八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこう 語っている。 |
当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い 島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、 途中 魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあった ようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そ こで生来冒険 心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということに なったんです。 明治十七年のことですがね。 |
この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期する ところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八五)年、 父は 明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は 受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島 の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。 |
ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたい へん興味を持ちまして独自に調査団を派遣しました。 調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡 もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日本領とする ようしきりに上申しまた。 |
明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検 から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。 戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み 切らせた理由と思います。 |
古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目 的をもって無人島借区を願い出て三○年間無償借地の許可を とると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航 させて移住労働者二八名を送り込むことに成功し、さらに翌 明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三 名女子九名を送り込んだ。この年の久場島在留者は二三名 となり古賀村なる一村を形作るまでになった。 これらの労働者がいつごろまでいたかは明らかでない。 説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏雄 論文『日本及日本人』一九七○年新年号)。 |
古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓 事業に従事させた(注 明治三十「一八九七」年 五十人、明治 三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八九九」 年二十九人の労働者を尖閣列島に派遣、さらに明治三十三 「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)。 |
大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その 息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、事業の 最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、剥製作りの職人 七~八十人(筆者注上地龍典氏によれば八八人)が、魚釣島と 南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の 領有権」『季刊沖縄』第 五十六号)。 |
明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、 石垣島から三十五人の労働者を派遣し、翌三十一年には更に 五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場などを建設 して、本格的に開拓事業を始めたのである(牧野清論文 「尖閣列島小史」)。 |
石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七 (一八八四)年人を派遣して、列島の探検調査に当たらせ、 翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開拓民を 送りこんだ。こうして最初の四年間に島に渡った移住者は、 一三六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。 明治三十六(一九○三)年には内地から剥製職人一○数人 が移住し、明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に 二四八人に達し、九十九戸を数えた。南海の無人島・尖閣 列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍典 著『尖閣列島と竹島』)。以上の移住の状況を書いている人たち のなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっている人が いるが、 それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったの か、どうもはっきりしていない。 |
尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原 教授によれば久場島である。また牧野清氏によれば魚釣島 である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島と 久場島をアベコベにしていとするとど うなるのか。この島名を アベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清 氏教授も知っている。一九四〇(昭和十五)年になっても、 沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といっている。 古賀辰四 郎氏が一八九五(明治二十八)年に久場島といった のはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀善次氏がカツオ ブシ製造と海鳥の剥製作りをしたのは魚釣島と南小島で あった。 |
古賀辰四郎氏が事業を開始されたのは,久場島からでは なかったのかといっているが、その理由は、久場島は魚釣島 ほど地形が複雑でなく、地質も単純であり、土壌は肥沃の ようで、島の南西面には数ヘクタールと思われる砂糖キビ畑 も船から望遠され、同行の者がパパイヤの木も見受けられた と言うし、古賀辰四郎氏は柑橘類も移植したといわれるから だとしている。 |
また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎 氏は魚釣島を根拠地にして事業を始めたようだといっている。 そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽が三つ 残っていたという。だが、よく考えてみなければならないことは、 古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは 海鳥を捕まえて、これを外国に売るためだった。 そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを 疑がわしむ」といわせたのは南小島と北小島の海鳥どもで あった。南、北小島は魚釣島に近い。 そして南小島の西側にひろがる平坦地は近代工業の敷地に なりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があっての ことである。 |
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。 これも、概略引用しただけでもまちまちである。 |
国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十( 一八九七)年以降大規模な資本を投じて、尖閣列島 の開拓 に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に 家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築するとともに、排水 溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などを おこなってきた(注 この功績によって政府は一九〇九「明治 四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している) (前掲尖閣列島研究会論文)。 |
開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業をおこなった(前掲尖閣列島研究会 論文)。 |
大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子 古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、とくに魚釣島と 南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐採が 営まれてきた(前掲尖閣列島研究会論文)。 古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで 魚釣島にカツオブシ工場を設けて、カツオブシ製造をおこなったり、 カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞の採集など を営んでいた(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七〇年 新年号)。 |
古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この 他フカの鯖、貝類、べっ甲などの加工、海鳥の缶詰製造がある。 ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正四 (一九一五)年以降、またグアノの採掘と積出しは、第一次 大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止された。 その他の事業も、太平洋戦争直前、船舶用燃料が配給制と なり、廃止された(前掲尖閣列島研究会論文の注)。 |
尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七 年に初めて開拓に着手されたわけです。その古賀さんが労務 者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽毛、亀甲、貝類等の採取に 着手し、その後魚粉の製造あるいはかつお節工場を現地に たてて経営しましたけれども、大正の中ごろから事業不振の ため全部引揚げ、その後現在にいたるまでも無人島になって いる(桜井×氏) |
古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に 派遣し、羽毛、べッ甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は 日本政府から魚釣島、久場島に派遣し、羽毛、ベッ甲、貝類の 採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から魚釣島、久場島、 北小島、南小島の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得 した。そしてカツオドリ、アジサシなどの海鳥の剥製、鳥糞の 採集、カツオ業を拡張したが、それらの事業がいつごろまで続 大正の中期ごろから事業が不振になったらしい 参照)。 |
古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水設備、船着 場をつくった。さらにカツオ節工場、ベッ甲、珊湖の加工工場 も建設された。そのほかグアノ採掘にも着手した(上地龍典 氏)。黄色嶼で明治四〇年代、古賀辰四郎氏は二年間燐鉱 採掘したが、その後台湾肥料会社に経営権を渡した(正木任 論文「尖閣列島を探る(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参照)。 |
古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み、(琉球政府 声明「尖閣列島の領土権について」)。 |
黄尾嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には 密柑,分旦、バナナ等があった。さつまいもやさとうきびは 野生化していた。魚釣島の古賀商店の旧カツオ節製造所の跡に 荷物を運んだ。魚釣島の北北西岸に少しばかり平地があって、 そこに与那国からの代用品時代の波に乗ってか、はるばると クバ葉脈を採取のため男女五三名という大勢の人夫が来て、 仮小屋を作り合宿していた(前掲正木任論文参照)。 |
正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田 武一氏が連れて行った人たちであろう。クバの葉脈でロープや 汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者注 ブラシという人もいる)を つくった。またクバの幹で民芸品などもつくったといわれている。 与那国にもクバはあったがそんなに多くなかった。 戦争によって物資が不足してくると、クバの繊維はシュロ椰子の 代用品につかわれたのであろう。 |
多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族と ともに魚釣島に渡った。これが、琉球政府声明にある古賀 商店の伐木事業なのかもしれない。しかしこれは季節的一時的 なもので、古賀善次が政府から四島を買いとったときには、 四島はふたたび無人島になっていた。 |
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒ グラフ』は,尖閣列島は無人島ではなかったという |
(略) |
辰四郎と弥喜太 |
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。 出資と経営についてどのような話があったのかもわからない。 わかっていることは、古賀辰四郎氏は金をだしても細々した ことはいわない太っ腹の人だったということである。 伊沢弥喜太氏は一八九一(明治二十四)年、漁民とともに 石垣島から魚釣島と久場島に渡航した。このとき弥喜太氏は 海産物とアホウ鳥を採取して帰った。
だしていた辰四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあったと思う。 弥喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。 |
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辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を 受けて、釣魚島に防波堤を築き、漁船が着岸できるようにした。 辰四郎氏が描いた明治四十年代の魚釣島事業所建物見物 配置図がある。(上地龍典著「尖閣列島と竹島」教育社刊、 五四頁)。この配置をみると漁師の住まい、カツオブシ加工 労働者の住まい、婦人労働者の住まい、 子供労働者の住まい、 カツオ切り場、カツオ釜などがあり、又火薬庫もある。 |
バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営は ゆき詰まり、弥喜太氏は家族とともに台湾に行き一九一四年 に花蓮港で死んだ。 |
この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸 した。そしてその四年後に辰四郎が死んだ。こ の二人が死 んでしまうと、正確な記録がないために事実関係がよくわか らない。辰四郎氏のあとを善次氏が継いだが、尖閣列島の 「黄金の日日」はそのころまでだったと上地龍典氏は語った。 |
どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために 光を滅する」ほどの海鳥がいて、北上するカツオ、マグロ、 カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列島海域を通過する。 そして古賀辰四郎氏の尖閣列島開発事業があったことは、 まぎれもない事実である。古賀商店の一九○七年の産物 価格は一三万四、○○○余円というから、これは当時として はたいへんな金額である。 |