尖閣諸島問題 | 日本のお姉さん

尖閣諸島問題

順風相送 in 1403

中国の皇帝が琉球国王の王位を承認し、これに冠や服を与えるために琉球に派遣する使節を「冊封使(さっぽうし)」と云うが、琉球で新しい王が即位する時には、明清両朝はこの冊封使を派遣た。そして冊封使が大陸の福州と那覇の間を往来する際には、必ず魚釣島(中国名・釣魚台)を航行の目印とした。中国側の資料によると、書物の中に初めて魚釣島の名が登場するのは順風相送と云う1403年の明の時代に刊行された書物に出てくる。順風相送


使琉球録 in 1534

また他にも、1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使・陳侃(チン・カン)の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転し、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだと想像出来る。ここで「想像出来る」と推測するのは、1~10回の使録がないからだ。それらはもともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していたのであろう。


日本一鑑 in 1555

更に『日本一鑑』という書籍にも尖閣諸島が出てくる。この本は、1555年に、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功が、九州滞在3年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、 「梅花より澎湖の小東に渡る」、「釣魚嶼は小東の小嶼也」とある。


<日本の主張>

尖閣諸島と南路を経て日本へいたるルートを中国人が知るように

なったのは、確かに陳侃使録によってであり、鄭舜功も『日本一艦』の

中でこれをあきらかにしている。

『使琉球録』において陳侃は従人の中に日本へいたる路程について

知識を有する者がいたことを誌している。


その知識を有する者とは、 寧波などに居住する日本人多数からであると、

鄭舜功自身が述べているではないか。


中国から琉球への往来は496年間中国に冊封使を琉球へ、琉球は

進貢使謝恩使などを中国へそれぞれ赴かせた。中国が琉球へ往来

するようになったのはこのとき以後であって、これにより前に公的な

かたちで両国が相互に交通をおこなっていたということは記録上無い。


他方冊封使が琉球へ赴いた回数は冊封・進貢関係の全期間を通じて、

合計23回であった。

そうしてこれ以外に中国が琉球へ公船を派遣したことはほとんどなかった。

冊封船の23回という数字は約500年間における総数である。

これを平均すると22年に1回の割合となる。しかもこの平均はいわば

算術的な平均であって、実際には30年あるいは40年といった空白期間

のあった例も数多くみられた(張学礼・林鴻年各30年、徐葆光・

周煌各37年、李鼎元40年など)。

陳侃のときは最長で前使董旻との間に実に55年の空白があった。

これでは中国人たちがこの航路を経験するのは一生に一度か二度と

いうこととなり、とうていこの航路に関する正確な知識をもちうるはずが

なかった。

航海の経験が少ない以上、操舟の術に信がおけなかったこともまた

当然である。 陳侃はなぜ琉球人がこの航路を熟知し、操舟の術にも

優れていたと記述したのであるかと言うと、それは中国への琉球船の

圧倒的な派遣回数である。

陳侃までの時代に、琉球船は281回中国へ赴いていた。

これに安南・シャムなどとの交易船が南洋諸地域へ渡っていた回数が

加わる。これらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ

間違いない。


尖閣諸島は台湾に属さない

各歴史書を基に中国は次のように主張している。

「この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆(キールン)とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島が中国領であることは、これによってもまったく明確である。」


しかし、中国が主張するように尖閣諸島が台湾に属するのであれば、

尖閣諸島は明らかに日本領である。


明王朝(1368-1644)の歴史を記した正史の『明史』は、1679年から

着手され、60年の歳月を費やして1739年にやっと完成、刊行した

勅撰歴史である。

『明史』はミャンマー、ラオスについて雲南の「土司」(=外蕃)列伝の

なかで同列に記述しているのに対し、「鶏龍国(けいろうこく)」(=台湾)は

「日本に属す」と外国伝の日本、呂宋(ルソン島)の間に併記している。


そして清代(1644-1911)の官定史書にも、台湾の領有権については、

「日本に属する」と公的に記録されている


例えば、乾隆版『大清統一志』には、「台湾は古より荒服の地であり、

中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人

(オランダ人)に占拠される。

(中略)台湾はもともと日本に属する」と記述している。


明治維新後の1871年、琉球の宮古島の住民66人が台湾南部に漂着し、

54名が「牡丹社」という部落民に殺害され、残る12名が命からがら帰国

するという「牡丹社事件」が起こった。外務卿副島種臣が1873年に北京

を訪れ、清国政府と直接交渉したところ、台湾の住民は「化外の民」で

「教化の及ばぬところ」とし、清国政府は事件の責任を回避した。


結論

中国(明・清)の行政が及ばない台湾から、更に遠くにある尖閣諸島を自国の領土であるとするのには無理がある。従って『順風相送』や『使琉球録』などで尖閣諸島のことが記載されていても、それらが直ちに中国の尖閣諸島領有の国家意思とはならないのである。また、中国から琉球への使節団よりも、琉球から中国への使節団の派遣回数の方が圧倒的に多いことから、尖閣諸島に対する知識も日本人の方が正確であった。

http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/


何度も読んで覚えたいので、またコピーしました。