辛亥革命 | 日本のお姉さん

辛亥革命

辛亥革命しんがいかくめい)とは、1911中国 でおこった 朝をたおし中華民国 をたてた革命

清朝末期、外国の侵略を防げず国内政治は混乱をきわめた。1911年に四川省中国民間資本鉄道 の国有化反対運動が起こり、それに乗る形で10月に孫文中国革命同盟会湖北省武昌 で反乱をおこすと、14の省がつぎつぎと清朝からの独立を宣言。各省代表が南京 に集まり、1912年 1月には、孫文を臨時大総統中華民国 臨時政府を成立、同年2月には宣統帝 を退位させた。(この年を以って中華民国暦元年とする。)
中華民国は、アジア 最初の共和国 であり、同年3月には、基本法たるいわゆる臨時約法 を公布している。
清朝は袁世凱 を討伐にむかわせたが、彼は新政権と交渉して、清帝を退位させて自分が孫文にとって代わり、いくつかの交換条件とともに大総統に就任した。しかしその後、孫文らとの約束を反故にし宋教仁 暗殺、臨時約法廃止、一時は皇帝 になるなど反民主的・専制的な政治をしたため革命の理想はやぶれた。
革命側は、1913年 の第二革命、1915年 の第三革命で抵抗したが、敗北は明らかであった。その後、1928年北伐 完了までは、中国全土に軍閥 が割拠する時代となった。


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辛亥革命 しんがいかくめい

アジア 中華人民共和国 AD1911 清

 1911年(宣統3)10月10日中国湖北省武昌(現在の武漢市)でおこった軍隊の蜂起をきっかけとし,清朝の専制政体を打ち倒し共和国中華民国を成立させた革命。陰暦辛亥の年におこったのでこの名で呼ばれる。広義には,清朝内部で憲法制定ヘの試みが始められ,一方,革命を推進しようとする諸勢力が結集して中国同盟会 を成立させるなどの動きがあった1905年(光緒31)から,袁世凱 による帝制復活の策謀が封じられた1916年(民国5)までをさす。1911年10月の革命を第1革命とし,1913年に入って袁の反動的諸政策に反対した広東・安徽・福建などでおこった反袁独立運動を第2革命,1916年におこった袁の帝制復活阻止のための護国軍蜂起を第3革命とする場合もある。1905年8月,それ以前から革命運動を行っていた興中会華興会光復会 などの各地の革命派が結集して東京で中国革命同盟会を結成した。当時東京には1万人前後の中国人留学生が集まっており,彼らのあいだには革命思想が普及していた。同盟会は孫文 を総理とし,彼の提唱した三民主義 を綱領に,機関誌「民報」を発行した。革命思想の宣伝活動を行い梁啓超ら改良派が刊行していた「新民叢報」と論争を展開したほか,中国国内で数次の武装蜂起を敢行し,新軍・秘密結社にはたらきかけた。彼らのめざした中国の革命は,農民・労働者の利害を主観的にではあるが代弁しつつ,彼らを民族ブルジョワジーが指導して行う性格のものであった。

 これより先清朝は1905年に憲政視察団を外国に派遣し,翌1906年には9年後に立憲制を実施するという「予備立憲」の上諭を発布して,将来立憲制を採用する考えを示した。さらに1908年には「欽定憲法大綱」を発布して大日本帝国憲法 の模倣にもとづく君主権力の強い憲法制定の方針を明らかにした。各省の議会や中央の国会を開設する準備段階として,1909年,10年には各省に諮議局,中央に資政院という諮問機関を発足させ,このほかに地方議会を準備したり,各都市に商会を設置することを認めるなどし,1911年になって内閣制を発足させ,権力機構の再編成をめざした。これら一連の立憲準備は,皇帝の権力を強化し,革命に対抗するために行われたもので,資政院諮議局などの権限は限定された弱いものであったが,憲法制定による清朝の改革をめざす立憲派の人々は,それらの機関を政治的発言の場として利用し,1910年には全国各省諮議局連合会が3度にわたる国会早期開設の請願を行った。

 一方,1905年,アメリカでの中国人移民禁止を定めた移民法 に反対してアメリカ商品に対するボイコット運動がおこり,つづいて1908年には日本船第2辰丸の武器密輸事件や安奉鉄道 改修問題をめぐって示された日本の高圧的外交に抗議して対日ボイコット運動が展開された。これらの運動は多くの場合立憲派系郷紳や商人によって指導されたが,その背後には成長をみせはじめた中国ナショナリズムの担い手としての広汎な人民大衆が運動に対し自覚的に参加したことがあった。各地の農民や労働者・小商工業者は,重税に反対する「抗捐抗税」闘争を組織し,長江流域などでは,農民にとって伝統的反権力闘争手段の抗租 (小作料不払い)闘争が発生し抗糧(土地税不払い)闘争もたたかわれるなどし,民衆の反権力闘争が社会の諸局面で噴出した。

 1911年5月,清朝は日本の内閣制にならって慶親王 奕キョウ※注5※を首相に内閣を発足させたが,この内閣は全閣僚13名のうち首相以下9名が満州族モンゴル族の王侯貴族で占められていたほか,軍の最高権力もすべて清朝の皇族が独占しており,清朝がめざしていた立憲政体がいかなるものであったかを暴露した。このため清朝に期待を寄せていた立憲派は失望し,その他の漢族の官僚・地主にも不満を抱かせる結果となった。同じ5月に,清朝は幹線鉄道の国有令を下し,民営による建設途上にあった川漢鉄道粤漢鉄道 を国有化することにした。この施策は,帝国主義列強から借款を引き出すために鉄道の権利をいわば抵当に入れるためのものであった。これに対し四川・湖北・湖南などの株主や民衆は,保路同志会などを結成して鉄道国有化反対運動を展開した。とくに四川では納税拒否や商店・学生のストライキに発展し,9月四川総督は運動の中心であった諮議局議長らを逮捕し,彼らの釈放を要求する民衆100余名を射殺した。保路同志会は各地で保路同志軍を結成して清朝政府軍と衝突し,四川は内乱状態に陥った。


 清朝支配の反民族的・専制的本質が暴露されると同時に,皇帝の政府が決定を下した政策に公然と反対する運動が郷紳・資本家・労働者・農民・学生など社会のあらゆる階層の一致によって行われたことで,清朝の権威失墜はだれの目にも明らかとなった。こうしたなか,長江中流の政治・経済・軍事などの要衝で湖北省の省都武昌において,革命派の指導をうけた新軍による武装蜂起計画が練られていた。武昌に司令部を置く新軍の下士官・兵士のあいだには同盟会の影響を受けた革命団体文学社共進会 が組織されており,彼らは10月9日に蜂起する計画をたてていた。この計画は事前に露見して指導部は逃走したり処刑されたりした。しかし革命派の下士官・兵士は1911年10月10日に武装蜂起を決行し,旅団長黎元洪 を都督にすえて湖北軍政府を組織した。武昌蜂起の成功により革命は全国に波及し,12月には清朝は華北・東北の2,3の省を押さえるにすぎなくなった。

 革命派は,清朝から独立した各省の代表者によって臨時参議院を組織し,孫文 を臨時大統領に選出し1912年1月1日南京に中華民国臨時政府が発足した。臨時政府は大統領制を採用し,閣僚に黄興 などの革命派幹部や立憲派のチョウケン※注6※などをあてた。清朝はこれより先1911年11月に袁世凱内閣総理大臣 に任命し,革命派に軍事的圧力を加えるとともに交渉による妥協の途をさぐった。中国に権益をもつイギリスなど列強の思惑や干渉もあり,革命派内部にも事態の早期収束を求める考えが台頭したことなどもあって,皇帝宣統帝の退位とひきかえに袁を臨時大統領とすることで妥協が成立した。革命派は袁に権力を譲るにさいし,主権在民・国民平等などを内容とする「中華民国臨時約法」を制定し,袁の専制化を防止しようと企図していた。

 皇帝の退位による清朝の滅亡とアジアで最初の共和国の出現は,南京臨時政府が実施した賤民身分の廃止・纏足 の禁止・太陽暦の採用など一連の社会風俗の改良政策とあいまって中国の人々に明るい未来を予感させるものであった。ただし,革命派は大衆のエネルギーを有効に組織しえず,逆に各地の農民運動を弾圧し,封建的土地所有関係を解消する問題への取り組みにも熱心ではなかった。同盟会は袁大総統のもとでの議会政党へと転換し,1912年夏国民党と改称する一方,三民主義 の一つ民生主義の核心であった平均地権」を綱領から削除するなどした。これらのことに革命失敗の原因がひそんでいた。


 1912年末の総選挙において国民党は国会で第1党となり,同盟会から国民党への改組を推進した宋教仁 を首班とする内閣が組織されうる情勢となった。袁は事局の推移から,自己が象徴的国家元首に祭り上げられてしまう危険を感得して,1913年3月部下に宋を暗殺させ,4月には国会を無視して経済建設のためと称するイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本の5国借款国と2,500万ポンドの借款契約を結んだが,実際は国民党を弾圧するための軍事費や議員の買収資金に用いられた。袁が国民党系都督を罷免したのち,7月,孫文 らは反袁武装蜂起を行い,第2革命が勃発した。

 しかし,袁の軍事力の前に革命派は各地で敗れ孫文 らは日本に亡命した。袁は国会を事実上廃止し,1914年臨時約法を破棄し,大総統に権力を集中させた別の臨時約法を制定した。孫文 ら中国ブルジョワ革命派は袁との闘争を継続し,第3革命をへて,多くの失敗を経験しつつ,やがて明確な反帝国主義・反封建の綱領を獲得し,それを人民大衆の前に堤示して彼らの革命への支持を得るべく革命運動をつづけた。その意味で辛亥革命は,中国革命の出発点となった。

 この革命がどのような勢力を中心として行われたか,また,革命によって中国社会にいかなる変化があったかについては,異なるいくつかの見解がある。辛亥革命は中国のそれ以前の王朝が交代したのと同じく社会に大きな変革をもたらしたものではなかったとするもの,この革命による変革は半植民地・半封建コースに沿ったものであり,半植民地状況下での絶対主義が成立したものであるとするもの,ブルジョワジーによって専制王朝体制が打倒されたブルジョワ民主主義革命ではあるが,反帝国主義・反封建主義の点では不徹底な結果に終わったとするものなどである。

〔参考文献〕菊池貴晴『現代中国革命の起源』1970,巌南堂

野沢豊『辛亥革命』1972,岩波新書

田中正俊・野沢豊等編『講座中国近現代史』III,1978,東京大学出版会

藤井昇三『孫文 の研究』1966,勁草書房

島田虔次・小野信爾編『辛亥革命の思想』1968,筑摩叢書

中村義『辛亥革命史研究』1979,未来社 http://www.tabiken.com/history/doc/J/J152R100.HTM


今の中国は、結局共産党のエリートたちや都会のブルジョア

ジーたちが貧乏人を支配する国になっている。

貧乏人たちが、不満をつのらせると革命が起こるので、中国は

社会の底辺に置かれている11億人を、そこそこ満足できる生活

に導かないといけない。都市部の1億人は、日本人より楽な生活を

しているようだし、1億人は官僚だから、いろいろな特権があって、

金を溜め込んで楽な生活をしている。2億人は満足しているわけだ。

残りの11億人は、何を考えているのだろう。