円明園焼討事件とは、、、。
英仏連合軍の円明園焼討事件とは、、、。
もともと円明園は、「暢春園」といわれ、明代に万歴帝(14代)の
外祖父が「清華園」と名づけた庭園の一角であった。
それに煕帝が手を加え(1709年)、さらに雍正帝はここを皇太后の住居とし、
特に円明園だけを別に拡張(1725年)、離宮として政務を行ったのが
始まりである。その後も乾隆帝も造園を続け、新たに長春園、綺春園が
設けられた。
総面積は350万㎡と「イ和園
」(「イ」は、巨にオオガイ)より広く、借景技法
(他の園内の建物や自然を風景の一つとすること)を凝らした園内には
全部で40景の風景があり、その一つ一つに四文字の名称をつけ、
額に掲げていた。
後に8景増やし48景とするが、眺める人の気持ちがはたらかなければ
「景」にはならず、人の「情」に趣をおいた48景の庭園であった。
しかし英仏連合軍の略奪と破壊でその姿は完全に失われた。
皇帝が離宮として政務を行ったのがこの円明園であったからだ。
西洋楼跡
清代中期以降、多くのヨーロッパ人が献上品とともに中国に文化を伝えた。
ベルサイユ宮殿、ギリシア建築を模した庭園は、乾隆帝時代にイタリア人
宣教師が、中国の職人を指導して作らせたものである。
中には、大水法と呼ばれるかつて噴水として利用されていた建物や観水法と
いって噴水を観賞したところの石柱や彫刻の破片が今でも残されている。
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円明園は、北京の地下鉄13号線の五道口駅からバスで10分ほどの
ところにあります。市街地からなら1時間以内で来られます。
円明園は,正確に言うと3つの庭園から構成されています。
全部回ったら,それだけで1日くらいかかってしまうような広さです。
円明園を紹介する写真によく登場するアーチ型の遺構は,かつて
噴水だった場所の後ろに建っていた建物の一部です。
その噴水の向かい側には,皇帝が噴水を鑑賞するための舞台が
あります。皇帝は,アーチやその後ろの楼閣を背景としながら,椅子に
座って噴水を鑑賞していたはずです。
円明園の破壊ぶりは徹底的で,そのまま使えそうなものは何一つ
残っていません。敢えて片付けもされておらず,無惨な破壊の跡が
そのまま保存されています。ここが北京だと言われなければ,まるで
ギリシアかローマの遺跡と思えるような光景が広がっています。
皇帝の権威は,国内では絶対的なものでしたが,イギリス・フランスと
いう外国の軍隊にとっては何の効力もありませんでした。
地面に散らばった白い大理石の破片は,皇帝の権威に対する完全な
否定です。イギリスやフランスは,一般に文化国家とみなされていま
すが、当時においては,両国は、野蛮であることをあえて清国に見せ
付けたのでした。
写真↓