義和団の乱 | 日本のお姉さん

義和団の乱

義和団の乱ぎわだんのらん)は、中国 代に華北地方 でおこった

排外主義 を伴った大衆運動 と、その後の欧米列国軍との一連の戦闘を

指す。

「義和団の乱」の名称は、義和団 という秘密結社 が引き起こしたことに

由来する。

義和団事件義和団事変とも。また北清事変(ほくしんじへん)との

呼び方もある。

排外運動の中で急成長

義和団の団員事件後に再現したもの
義和団の団員
事件後に再現したもの

清末の山東省 は元来の農業生産力の低さと人口過多のために、多くの

民衆が生活の苦しさにあえいでいた。加えて19世紀 末以降の市場開放に

伴う欧米諸国の製品の流入は地域経済を破壊するに至った。

そうした状況の中で例えば山東省で布教したカトリック は北境は済南に

総堂、南境にえん州に総堂、東境に烟台に総堂とあわせて1159カ所の

教会等をもうけるなど多数入り込み、与えられた特権をもとに布教活動や

玉帝廟、関帝廟、娘娘廟を破壊し用地の取得を行った。

住民の怒りは彼らへと向かい、教会の破壊・子供含む教徒を300名弱

殺害した。義和拳はこうした民衆と結びついて急速に巨大化し、盛んに

排外活動 を行った。

1899年 の年初から年末にかけての時期のことである。

排外活動を行う中で巨大化する義和団に対して、欧米諸国の手前もあり、

清朝は当初鎮圧の意向を見せた。

1899年12月より山東巡撫の任を受けた袁世凱 は、持ち前の軍事力で

弾圧し、「刀や鉄砲を受け付けない」と自称する義和団の幹部を公開

銃殺して民衆の信仰心をそぐなどの強硬な姿勢を見せた。

その結果、1900年の春には義和団は山東を駆逐され、直隷 など華北各地に

流入するようになった。

また、この春は山東省一帯を中心に大干ばつが起き、大量の浮浪民が

発生。義和団を更に膨れ上がらせた。

清朝・義和団と列国の戦争

しかし、こうした経過の中で義和団は「扶清滅洋」(清朝を助け、西洋を

滅ぼせ)をスローガンとして掲げるようになる。これが清朝内部の

満州族 を中心とした守旧派の歓心を誘い、「義和団を保護すべきである」

との声もあがるようになった。

李鴻章 などの漢人 大官や光緒帝 はそうした動きに反発し、議論は

紛糾した。この間も義和団は京漢鉄道 沿線・東三省満州 )・内モンゴル

の漢人を取り込んで鉄道や電信の破壊西洋商店の打ち壊しなどを

継続し、欧米諸国からの義和団鎮圧要請はひきもきらなかったが、

清朝内部は活動を活発化する義和団に対して有効な手立てが

とれないでいた。



そうした中で1900 6月21日 、清朝の事実上の最高権力者西太后

ついに義和団側に傾き、欧米列国に宣戦を布告した。



清朝の公認を受けた義和団はついに北京まで侵入し、各国大公使館を

包囲攻撃、日独の外交官を殺害した。


北京周辺の清朝の軍隊も、西太后の命令のもと列国を攻撃し、事態は

清朝と列国との武力衝突に至った。

列国側は、大使館街に立てこもり、援軍を待つ状況となった。


列国側に援軍が到着するとともに戦況は清朝に不利となり、同年7月には

天津 が落城、さらに8月14日 には日本ドイツイギリスフランスロシア

アメリカイタリアオーストリア の8国の連合軍が北京 を陥落させたことで

事変は終焉した。


各国の公使館は包囲されて実に55日目の開放となった。

これと相前後して西太后と光緒帝は西安 に逃亡、西太后の別荘であった

頤和園 は列強の軍隊に略奪・破壊し尽くされた。


また、ロシアは居留民の救出と東清鉄道 の保護を理由として同年7月に

東三省に侵攻、八旗兵 を中心とした清朝の軍隊を撃破し、8月にはほぼ

全域を占領下に置いた。


同年9月7日 、ついに西太后は列国との和議 に応じることを決断し、

慶親王奕劻李鴻章 を全権に指名して交渉に当たらせた。

同時に清朝の軍隊に転じて義和団を攻撃するように命じ、ここに義和団は

壊滅した。その後、ロシアが清朝(李鴻章)と極秘に交渉し、東三省での

利権を一方的を確保しようとしたために英・日・米の猛反対を受けるなど

の列国間の利害の衝突が発生、和議調印が長引いたが、

1901年 9月7日 、列国と清朝の間で北京議定書 が調印された。

東南互保―地方長官の反逆―

話が前後するが、ほとんどの漢人官僚は当初から義和団の鎮圧を

強く主張し続けた。しかし満州貴族に押し切られて1900年6月21日に

西太后が列国に宣戦を布告すると、早くも同27日には両広総督李鴻章・

両江総督劉坤一 ・湖広総督張之洞 ・山東巡撫袁世凱などの地方長官ら

は、宣戦布告以降の上諭を無効として、諸外国と東南互保の盟約

結んだ。

この盟約は、自ら統治する領域内の列国の利権を保障し、独自の

友好関係を保つものであった。


こうした地方長官の行動を、清朝の権威失墜と地方権力の自立という

観点で論じ、民国期の軍閥時代とつなげて考える見方が多かった。

しかし、漢人官僚らは西太后が列国への和議を認めると再び服従に

転じており、特に李鴻章などは老体に鞭打って和議交渉に当たり、

寿命を縮めている。張之洞や袁世凱もその後専心して光緒新政 に取り

組み、また張は自ら作った近代化軍隊5000名の清朝中央への吸収を

承知している。東南互保は、事情に鑑みた緊急退避的なもので、清朝は

官僚に対してはまだこの時期は求心力を保持していたと考える見方が

近年では多くなっている。

ロシアの東三省占領と諸外国の利権争い

紫禁城 内に集結する各国の軍隊(1900年10月27日)

義和団の乱の戦闘が未だ継続中の1900年7月、アメリカは国務長官

ジョン・ヘイ の名で、門戸開放宣言 (Open Door Doctrine)を発した。

1899年の宣言を再度繰り返したもので、終戦後の列強諸国による利権

争いの牽制を目的としているが、とりわけ東三省(満州)へ派兵したロシア

への警戒がその最たる理由であった。


ロシアは既に清国より遼東半島租借して港湾都市大連旅順 を建設し、

さらに東清鉄道の敷設やハルピン などの植民都市を整備するなど、着々

と東三省への勢力扶植を行っていた。


一方で大豆粕など肥料を中心として、日本・アメリカ・イギリスなどは年々

東三省との貿易額を増しており、当地のロシアの植民地化は望む

ところではなかったのである。


また、南下するロシアに対する防波堤を朝鮮 に設定していた日本から

すれば、

東三省がロシアの勢力下に落ちてしまうことは大きな恐怖であった。


その警戒を裏付けるようにして同年8月、ロシアは東三省を完全に占領し、

官庁・軍隊なども完全に自らの支配下に置いた。


さらに11月、ロシア極東総督アレクセーエフ 中将と清朝の奉天 駐留の

盛京将軍増祺 との間で満州還付予備条約が締結された。こ


れは奉天などの主要都市にロシアの駐兵権を認めるなどの一方的な

ものであった。しかしこの条約は清朝中央の認めるものではなく、

李鴻章が対露交渉の全権となり、新たに交渉に当たらせたが、ロシア側

の強気の姿勢は変わらず、交渉は難航した。


明けて1901年2月16日 、ロシアは清朝の楊儒 駐露公使に対して、極秘に

12カ条からなる満州返還条約案を提示した。

この文案には、ロシアの東三省における軍事・行政権の掌握、鉄道・

鉱山・土地に対する特権取得など、さらに強硬なものであった。


3月1日 にはロシアは清朝に対して、もし調印を拒否すれば、東三省を

永遠に返還しないと脅迫し、李鴻章は清朝にこの条約を早く締結する

よう求めた。

こうした中、2月27日駐露公使楊儒が日本にこの情報をリークした。


日本はアメリカ・イギリスとともにロシアに抗議し、さらに対露交渉全権の

李鴻章と仲の悪い劉坤一・張之洞にこの情報を流し、彼らを通して

清朝の内部へもこの条約を調印しないよう圧力をかけた。


結局こうした圧力にロシアは屈し、東三省から無条件で全面的に撤兵

する旨を列強諸国に約束した。

しかし北京議定書調印後もその約束は履行されず

日英同盟日露戦争 へとつながっていくのである。

孫文蜂起も時期尚早

革命派でこの騒乱を利用しようとする勢力が現れた。

孫文鄭士良 らを中心とする興中会 で、1900年10月8日広東省 恵州

600余名を率いて蜂起した。これを恵州事件という。一

時は清国軍相手に善戦し、軍勢も1万以上になるが、連携の悪さなどから

11月には壊滅した。

この蜂起には、後に大陸浪人とよばれることとなる日本人も多く参加し、

戦死者も出している。

また、台湾総督兒玉源太郎 は武器援助と軍事顧問の派遣を極秘に

約束したが、10月19日 に児玉と親しい山県有朋 の内閣が倒れ、その後

日本政府からは援助禁止の指示が出たために、実行に移せなかった。

義和団の乱の影響

日本でもマルクス主義 が盛んであったころは、「輝かしい民衆の反帝国

主義闘争」とイデオロギーの視点から称揚する歴史家も多かった

。しかし、現在ではごく普通の土俗性の深い民衆が日ごろの不満を

外国人排斥運動として爆発させ、清朝が尻馬に乗ったものという見方が

一般的である。

しかし、その爆発は欧米諸国の圧倒的な武力によってあえなく粉砕

されてしまった。すると特に知識を持った人々の多くは、新たな不満の

対象として、侵略から国を守ることができない清朝自身に向かうようにな

った。特に留学生として日本に渡った者は、ナショナリズム という概念を

取り入れ、国家存亡の危機感とともに、「漢人国家の樹立」「滅満興漢」と

いった考え方を持つようになっていった。

多くの留学生がそれに賛同して革命組織が生まれるようになり、清末には

彼らによる蜂起・テロ がたびたび発生した。

一方で清朝の漢人高官らも大きな危機感を抱き、光緒新政の名の下

改革に取り組むようになった。

自ら西洋の知見を取り入れようとも考え、1905年 には岩倉使節団 と類似

した形で出使考察を行った。

しかし、改革は満州貴族の反対や、議定書の賠償金に苦しみ、軍事面を

除きなかなか進行しなかった。

そして1911年辛亥革命 を招くことになるのである

義和団の乱を扱った映画

関連書籍

  • ウッドハウス 暎子 『北京燃ゆ』義和団事変とモリソン 東洋経済新報社 ISBN 4492060502
  • 三石善吉 『中国、1900年―義和団運動の光芒』 中公新書 中央公論社 ISBN 4121012992
  • 斎藤聖二 『北清事変と日本軍』芙蓉書房出版 ISBN 4829503785

(以前にも義和団の資料は貼り付けました。)

義和団の乱は、日本が戦争に巻き込まれていくきっかけに

なっていると思う。

清国の使う義和団に各国の大使館が包囲攻撃され、

日独の外交官が殺害された。


中国は義和団のことを歴史とみなさないつもりか、中国人にちゃんと

教えていないそうだ。