アロー戦争 | 日本のお姉さん

アロー戦争

アロー戦争(あろーせんそう、 :Arrow War)は、1857年 から1860年

かけてイギリスフランス 連合軍との間で起こった戦争

最終的に北京条約 で終結し、清の半植民地化が決定的なものとなった。

きっかけとなった事件から、単にアロー号事件や、阿片戦争 に続くという

形で第二次アヘン戦争(英:Second Opium War)とも呼ぶ。


アロー号拿捕事件1840年 阿片戦争 により、上海 ほか五港の開港を約束させ、阿片 の輸出も事実上公認としたイギリスであったが、内地へと入ることは認められておらず、また清国内での反英運動も激しくなり、イギリスが期待した程の商業利益は上がらなかった。この理由を清の貿易機構に求めたイギリスの政界では再び戦争を起こしてでも条約の改正を求めるべきだとの意見が強くなってきた。

その絶好の口実とされたのがアロー号事件である。1856年 10月8日 に清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を海賊 の容疑で逮捕した。これに対し当時の広東 領事ハリー・S・パークス は清の両広総督・欽差大臣 である葉名琛 (琛は王ヘンに深の旁)に対してイギリス船籍の船に対する清官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲がイギリスの国旗 を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。葉名琛はこれに対して国旗は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂した。

実際には事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限が過ぎており、アロー号にはイギリス国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕はまったくの合法であった。

開戦

パークスの行動を見た清国駐在全権使節兼香港総督 バウリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。

イギリス首相ヘンリー・パーマストン は現地の対応を支持し、本国軍の派遣を決定するが、議会 の反対により頓挫した。パーマストンはこれに対して解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に前カナダ 総督エルギンと兵士5000を派遣した。同時にフランスのナポレオン3世 に共同出兵を求め、フランスは教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。

アメリカロシア は戦争には加わらないものの条約改正には参加すると表明した。

1857年 12月、英仏連合軍は広州を占領して葉名琛を捕らえた。翌年2月には英露仏米の全権大使連名により北京 政府に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の回答に不満を持った英仏連合軍は再び北上して天津 を制圧し、ここで天津条約 を結んだ。この条約の内容は公使の北京駐在キリスト教 布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などである。またこの条約による関税率改定により、阿片の輸入が公認化された。条約締結を見た連合軍は引き上げた。

しかし連合軍が引き上げた後の北京では天津条約を非難する声が強くなり、この条約内容を変更しようと動いていた。

1859 6月17日 、英仏の艦隊は天津条約の批准のために天津の南の白河口に来た。これに対する清の迎接は無く、また白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを取り除いている最中に大砲で清国の攻撃を受けた英仏艦隊はモンゴル 人将軍サンゴリンチンの軍に敗れて上海へ引き返した。激怒した英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらがサンゴリンチンに囚われると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した咸豊帝 は熱河に避難した。

この時に英仏連合軍は円明園 を略奪し、最後には放火して証拠を隠滅した。清王朝は中華思想 によって外国人を初めから「野蛮」と見ていたが、中華王朝はたびたび「野蛮」に倒されてきた歴史的事実があるため、英仏は自ら「野蛮」を演出することで、清を屈服させる算段に出たわけである。

北京条約

連合軍は北京を占領し、ロシア 公使の調停の下に北京条約 が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島 の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる苦力 貿易を公認するものである。この条項は労働者移民の公認と、それによる一定の移民保護を目的に入れられたとされる。更に調停に入ったロシアに対しても、それまで清露両国の雑居地であった沿海州 を、正式に譲る事になった。