人間はみんな、こころに穴が開いている。 | 日本のお姉さん

人間はみんな、こころに穴が開いている。

人間はこころに穴が開いていて、みんなその穴を埋めようと

ウロウロしているんだって、昔の有名な人が言っている。

そんな内容の絵本もあって、主人公は少し欠けた円形なのだ。

欠けた円形の主人公が転がりながらいろんなカケラを探しにいくのだ。

でも、何を当てはめてもしっくりこない。

「ボクのカケラを探して」という名前の絵本だった。


女の人は、どうも側に男がいないと、しっくりしないらしく、どんなに

女性同士で楽しく過ごしていても、「これが男だったらな~。」と言う。


友達の女の子が旅行に行きたがった。わたしも旅行は好きな方なので、

一緒に行くことを同意したら、バリの旅行を決めてきた。

わたしも長い間人間をしているが、驚くほどの高級ホテルに泊まる

ツアーを決めてきた。

と、言ってもタダではなく、わたしが後で余裕があるとき、返金することに

なっている。まあ、支払いがいつでもいいというだけで、借金して旅行に

付き合ったということになる。しかし、夜、プライベートビーチに寝転んで、

空を見ながらくつろいでいたら、友達が声を出して、「これが男と一緒

だったらなあ!」と言うのだ。

この友達は、毎回一緒に旅行に行けと半ば強制的に旅行に連れ出して

くれるのだが、かならずこの禁句を口走る。ボーイフレンドがいるので、

その人のことを思い出したのだろう。「今度は新婚旅行でここにきたら

いいじゃん。」と言っておいた。それぐらいゴージャスなホテルだった。


広い敷地には、白いバリの花(バリではジュプンという。香水には

フランジパニと書いてある。英語圏ではプルメリアという花)や

赤い花(ガンバンスパトゥと言う名前だとホテルの従業員が言っていた。

一夜だけ咲いてしぼむ花だが、すごくいい香りがする。)が咲いていて、

ホテル全体になんともいえないいい香りがふんわりと漂っている。

ビーチには、レストランがバイキング方式の料理を並べ、3千円ぐらい

のバイキング料理でガムランの演奏や本場のバリダンスが見れる。

ダンスを見なくてもガムランの音はタダで聞こえてくる。

レストランの側のプールには、プールの中にランプが付いているので、

夜になるとプール全体が青いランプのように見える。

レストランの明かりはオレンジ色で、人々は外に作られた席で

ゆったりと食事をとっている。街にでなくても十分ホテルの中で楽しく

すごせる。とにかく広くて一部しか散歩できなかった。

プールは夜、7時までと書かれているが、女の子がプールで泳いでいる。

パシャ、パシャと魚が跳ねるような音がしている。

海からの風が涼しい。ちょっと肌寒いぐらいだ。喉が渇いたので、

バリコーヒーを頼んで飲んだ。

友達の頼んだ飲み物は、小さいパイナップルをくりぬいた容器に入って

出てきた。コーヒーもおいしかった。

レストランで食べたバリの伝統料理よりも、バリコーヒーがおいしいと

感じた。バリの伝統料理は、未知のスパイスが使われている料理で、

後でアレルギーがでてしまった。ちゃんとアレルギーが出た時の薬を

持ってきていたので、痒いブツブツはすぐ消えた。高いご飯より、

街で食べる普通の料理が向いているみたい。

ホテルの部屋からは、海が見える。やしの木が庭にたくさん

植えてあって、明け方になるとイグアナぐらいの大きさのやもりが

やしの木に駆け登っていく。降りる時は、頭を下にして何の苦もなく降りて

いく。リスが隣の木からジャンプして、背の低いやしの木の葉っぱに

飛び乗り、やしの実を食べている。

日本で聞いたことがないようなきれいな声で鳴く鳥が飛び交っている。

ホテルのベランダに座っているだけで、そんな景色が見れるのだ。

優雅にホテルの雰囲気を楽しんだわけだが、友達は「今度は男と

来たい。」などと言っている。ロマンチックなすばらしい場所であれば

あるほど、「ここは男と来るべきやな。」と、思うらしい。思うだけではなく、

口にする。あんまりしょっちゅう言うので、「それ、禁句やで!」と言って

やった。女の人って、やっぱり男の人がいないと面白くないらしい。

わたしも女なので、その気持は分かるけど女の人って、やっぱり男の

人のために神さまに創られているのかなとフト思った。

もちろん、男も女もお互いに必要なのだろう。そんな風に神さまが

創られたのだろう。男と女がお互いに惹かれあったて愛し合うのは

自然だし、一緒に暮らして子供を育てるのは良い事だ。


でも、男は女の要求に完璧に答えることは無理だし、女も無理だ。

たとえ愛し合って一緒に暮らしても、人間は完璧では無いから、お互い

のこころの穴は埋まる事が無い。不満がでるのは当たり前だ。

人間に頼っては、こころの穴は埋まる事は無いのだ。


やはり人間は神さまに創られたので、神さまに祈ったり、聖書から

神さまに励まされたり、何か迷った時に神さまに助けを求めたりする

のが自然なのだと思う。神さまと仲良くしていなければ、こころの穴は

埋まらないのだと思う。人間は自分の好きな宗教で、自分の宗教心を

満足させようとしているが、自分を創った創り主である神さま以外の

「神」は、実は悪魔と悪の霊を崇拝していることになる。

悪の霊と関係していると、しまいには体も精神を乗っ取られてしまう。

いろんな悪霊が見えるようになったり、霊媒や占いを始めるように

なったりする。体も精神も悪の霊に乗っ取られるのだ。


自分の好きな宗教を選ぶのは、間違っている。自分を創った神さましか

「神」ではないはずだ。「神」は選ぶ対象ではなく、その神さましか

神さまは存在しない。過去も未来も支配している神さまでないと、

信頼する意味がない。

悪の霊を信頼してはいけない。目先の物にまどわされていると

本当の神さまについて考えるチャンスが無くなる。悪魔の最終目的は

たくさんの人間を地獄に落とすことだ。

神さまが大切に思っている人間を大勢地獄に落せば、自分は地獄に

行かずに済むと悪魔は思っているのだろうか。

エイズにかかった人がやけになって、他人にも感染させようとするような

心境なのか、単に神さまの創った人間を地獄に落とせば、神さまが

悲しむので、嫌がらせのために頑張っているのか、それは分からない。


人間のこころの穴は、神さまと仲良くするための場所なのだ。

人間は人間に満足できないし、他の人間の要求に完全に答えてやる

こともできない。その穴は、神さまの場所なのだ。

神さまと仲良くし、神さまに信頼し、神さまに助けられて生きるように

人間は創られているのだ。

試しに「神さまと仲良くしたいです。」と神さまに語ってみます?

生きている間が、神さまと仲良くするチャンス。生きている間、

神さまと無関係だと、死後も神さまの国にいけない。天国に行くには

罪が赦されていなければならない。


神さまは、人間の罪を許すために罪の無いひとり子のイエス・キリスト

を人間として、遣わされた。それは、聖書の預言どおりに行われた。

罪の無い神のひとり子が十字架の上で流した血を見て、神さまは

人間の罪を赦された。

このことを生きている間に知って、信じてほしい。罪がこころにある

人間は誰も天国に行けない。罪の罰は、それぞれが死後に受けなけ

ればならない借金みたいなものだ。ただし、地獄では、裁きは終わる

ことがない。地獄は悪魔のために作られたゴミバコみたいな場所で、

悪魔と悪魔に従った者が永遠に苦しむ場所だと聖書には書いてある。

罪の無い人間なんていない。罪人が罪を赦されて天国に行けるように、

神さまのひとり子が、その罪の借金を肩代わりしてくれたのだ。


もう罪の借金は、イエス・キリストによって支払われている。でも、

それを認めない人は、死後に罪が裁かれる場所に行く。

借金返済済みの領収書を受け取らなかったら、神さまとは無関係と

いうことになる。神さまのプレゼントは、受け取らねば!

プレゼントとは、タダで受け取るものだ。必要なのは、「ありがとう。」の

言葉だけだ。


「信じる者は救われるのです。信じない者はすでに裁かれている。」

これは聖書のことば。


人間は、偶然に微生物からできあがった生き物ではない。神さまが

いのちを吹き込んで創造された霊的な存在なのだ。だから、人間の

こころに神さまを信じたいと思う宗教心がある。こころに神さまと仲良く

しないと満足できない部分がある。


宗教は人間が宗教心を満足させるために作り出したモノ。

でも、人間の作った宗教はニセモノだし、金儲けの道具だし、

悪魔を礼拝することだし、悪の霊に体とこころを乗っ取られること。


人間が作ったニセモノの神を信じるのは、不自然なことだが、

人間が、自分を創ってくれた神さまを信じることは自然なことなのだ。


神さまは、条件付きで罪を赦すのではない。

断食をしたり、一日何度も「ごめんなさい。」と言う必要はない。

人間の努力を追加しないと、罪は赦されないのか?違うでしょう?

天国に行きたいと思う人は、誰でも条件無しで救われる。


神さまの赦しは一度で完璧だし、恵みでもらえるモノだし、信じるだけで

もらえるモノ。神さまは、約束を実行される方だし、人間を天国に

入れたいから、条件無しで罪を赦すと言ってくれている。

人間が求めているモノは永遠のいのちと、神さまと親しい関係を

持つことだと思う。その他のモノは、オマケみたいなもの。

もちろんオマケもくださいと、神さまに願ってもいいと思う。