中国ではみんな規則を守らないし、コピーしまくりでそれを謝らない。 | 日本のお姉さん

中国ではみんな規則を守らないし、コピーしまくりでそれを謝らない。

「おまえを自由にさせすぎた」

 6月に入ってから、北京の空気は風が吹いているのに蒸し暑さから逃れられない日
が続いている。17年前の天安門広場もこんな天気だったのだろうか。1989年の
第二次天安門事件(中国や香港ではその日付けでそのまま「六四」と呼ぶ)からもう
こんなに時間が経ってしまった……その日を挟んで数日間、友人たちが今の自分の姿
と「あの頃の自分」を脳裏で比べているかのように、ぽつんとこうつぶやくのを何度
か聞いた。

 香港では恒例になった「六四記念集会」に主催者発表で4万4000人、警察発表
でも1万9000人の人が集まったという。参加者数は毎年減ってきてはいるものの、
17年後の今でも2万人近いまたはそれ以上の人たちが自主的に集まってくるという
点においては、日頃「忙しい」が口実の香港人からすれば驚くべきことだ。さらに、
ビクトリア公園で開かれた集会にはわざわざ足を向けなくても、その日が「六四」記
念日であることを覚えており、それについて思いをはせる人はわたしの友人たちにも
多くいる。

 もちろん、中国国内においてそれを公けに語ることはタブーである。30年前の文
革ですらメディアで回顧できないのだから、「六四」はなおさらである。ただ、北京
のような大都市で30代後半から40代以上の人たちとゆっくりと話をする機会があ
れば、自然とその話は口に上る。またわたしのように四六時中インターネットであち
こち嗅ぎまわっている人間は、いつものぞいているウェブページが重くなったり、開
けなくなったりして、「ああ、また『六四』期間に入ったんだな」といやでも気付か
される。そんなだから、個人のブログやインターネットサイトはこの時期、言葉使い
に非常に注意深くなる。そして、実はそんな言葉の裏を読み歩くのはなかなか楽しい
作業でもある。

 そうしたなかでまた、雑誌『三聯生活週刊』の王暁峰編集部長の新ブログ『不許聯
想』で新しい話題を見つけた。以前ご紹介した彼の旧ブログ『按摩乳』は、4月初め
に中国政府が「ウェブサイト浄化キャンペーン」を声高に謳い、「文明化」の旗を振
り始めると、他サイトからの記事の転載を繰り返すようになり、そのキャンペーンに
呼応するかのようにアカデミックな文章を転載しまくった上、どこで見つけたのか、
読者も読めないようなロシア語やドイツ語の記事まで引用しているうちに、更新が途
切れてしまった。そして以前の内容が本として出版されたのを機会に、その新刊のタ
イトル『不許聯想』を使って新しいブログを開設したようだ。

「聯想」とは、あのIBMのPC部門を買収した中国コンピュータメーカー「レノボ」
の中国語名称であり、また彼の勤める時事雑誌『三聯生活週刊』の「聯」にもつなが
る。『不許聯想』とはストレートに訳すと「連想するのはやめてくれ」という意味で、
「オレのブログからいろんなことを勝手に想像しないでくれ」といった意味合いにも
とれる。「お騒がせ者」王暁峰らしい、紛らわしく、ひねったタイトルである。

 ところで、その『不許聯想』は6月6日、「おまえを自由にさせすぎた」というタ
イトルでこう始まっていた。

「荘羽が訴えた、郭敬明の盗作事件は、人々の予想通り郭敬明の敗訴で幕を下ろした。
しかし、意外なことに郭敬明は沈黙を決め込み、公開謝罪を拒絶し、出版社も同様の
態度を採っている。その後、郭敬明の支援者たちは次々と郭敬明支持の声を挙げ、
『盗作したというけれど、それをどんなふうにやったのかが問題だ。わたしたちの小
四(郭敬明のニックネーム:筆者注)は立派じゃないの。青を藍より青くしたんだも
の。なんだったら、あんたもやってみたら?』などと平気で口にしている。つまり、
彼らは郭敬明は盗作したけれども、りっぱなものを書いたじゃないか、それも創作だ、
というのだ…(略)…一体、何が彼らの善悪の判断能力を失わせてしまったのだろう
か」

 わたしは小説を読まないのでこれまで知らなかったのだが、1983年生まれの郭
敬明氏は、日本でも翻訳本が出版されている韓寒氏(82年生まれ)とよく並べられ
て語られる「ポスト80」の人気作家らしい。すでに10冊近い著書を出し、処女作
『幻城』と第二作『夢の中で花はどれだけ散ったのか』はすでに100万冊を売り上
げているという。しかし、その『夢の中で花はどれだけ散ったのか』は荘羽女史の小
説『圏内圏外』のプロットや登場人物、果てはそこで使われている言葉を盗用したも
のだと、2003年に訴えられた。先月22日に、一審判決とほぼ同じく郭氏側に公
開謝罪と賠償を課す二審判決が下ったのだが、郭氏及びその出版社からその執行期限
である6月6日を前になんの動きもなく、人気作家の盗作事件に対する態度表明とい
うことで、業界の注目を集めていた。

 王暁峰は書く。

「ぼくはマラドーナを思い出した。あの天才選手は有名になってからごたごたばかり
起こし続けている。私生児を認めず、ハンドボール疑惑も認めようとせず、『神の手』
なんて言葉まで発明して人々を苦笑いさせた。エアガンで集まった記者たちを狙い撃
ちし、ドラッグという悪習慣から足を洗えずにいる。つまるところ、あのサッカー王
には人々の常識では理解し得ない行動が多すぎる…(略)…郭敬明だろうがマラドー
ナだろうが、彼らはどこかの筋が切れちまった天才なんだ。まるで街中の老占師のよ
うに、それを必要としている人間は彼らを信じきる。そうしてその連中の世界に対す
る判断を変えてしまう。明らかに他人を騙していることが分かっているのに、人が無
分別に信じてくれるから、彼らのカタリにも道理があることになってしまう。それと
いうのも人々が彼らを自由にさせすぎたからなのだ」(「おまえを自由にさせすぎた」
不許聯想・6月6日)

 確かに荘羽女史のブログをのぞいて見ると、「ばばあめ! カネが欲しいのか?」
とか、「どっちが盗作したのか、わかったもんじゃない」「若い人気作家の力を借り
てまで有名になりたいのか」などという、郭ファンと見られる言葉の書き込みや意味
のない、しかし見ているものを不愉快にさせるような文字が並んでいた。

「……法律は強制的に執行することができるが、それはオレ郭敬明の気持ちに背くも
のだ、オレに法律の執行判決書どおりに義務を執行するように迫られるかもしれない
が、それはオレがそれを認めたことにはならないそ、とでも言うのだろうか。もし、
誰かが郭敬明に『やっぱり盗作だったんじゃないか』とでも問い詰めようものならば、
彼はこう言うかもしれない『盗作じゃない。裁判所がオレが盗作したという判決を出
しただけだ』。法律なんてどうせいつもいい加減なんだから、郭敬明がもう一人増え
たところでどうってことはない……有名人ってのは、一般人と世界観が違うやつらな
んだ。自由すぎても、それが突っ走りすぎたっていいんだ、さらには道徳や法律を無
視しようが転覆させたとしても」(同上)

 ここに、かつて大学で法律を学び、ほんの短期間だが検察院に勤めたことがあり、
今や著名時事雑誌の編集部長になった王暁峰の「ちくり」が込められているように思
える。もちろん、そのブログタイトルのように、勝手な連想は控えるべきだろうが。

 翌7日のニュースサイトの報道によると、郭敬明氏側は裁判所の判決執行期限ぎり
ぎりに判決どおり21万元の賠償金を荘羽女史に支払い、出版社は『夢の中で花はど
れだけ散ったのか』の発行を取りやめたものの、謝罪は拒絶しているという。そして、
正式な声明は発表していないが、それらの報道のほとんどが引用しているブログ『小
四の遊楽場』で、郭敬明氏はこうコメントしている。

「この3年間に、ぼくは長編小説『夏至はまだ』を書き、7冊の『島』シリーズを出
版し、音楽小説『迷蔵』を発行し、映画『無極』の脚本を書籍化した。ただ、裁判に
対してほとんど精力を使わなかった(これが敗訴となった重要な理由かもしれない)。
…(略)…だから、裁判所の判決どおり賠償も販売停止もする、それがぼくからの法
律に対する尊重の表明だ。でも、謝罪はしない。金銭、名声、そんなものはそれほど
重要じゃない、それを渡したって構わない。でも、謝罪だけは、それがどんな簡単な
一言であっても、圧力によって自分の原則を放棄し、かつての創作のときの苦しみを
放棄し、すべてのぼくの文字を喜んで読む人たちの希望を放棄することはできない」
(「2時間後の誕生日」小四の遊楽場・6月5日)

 う?む。このブログを最初から最後まで読んでみても、「ぼくの文字を喜んで読む
人たちの希望」云々はものを書く者として分かるのだが、ならば「自分の書いたもの
を盗用された人の気持ち」という部分が、確かに彼には欠けているようである。

「……郭敬明のブログへの書き込みを参考にしていうと、一部の若いネットユーザー
の言動には確かにがっかりさせられることがある。客観的に言えば、これは経済体制
の転換の過程において、伝統的な道徳観が十分に重視されず、新たな市場ルールが完
全に出来上がっていないことと関係している。さらにいえば、問題のルーツは我々自
身にあるのだ。というのも、『成人の世界』は若者たちにとっての鏡であり、社会道
徳倫理が範をなさないのは若者たちに始まったことではなく、『成人の世界』から蔓
延しているからなのだ」(「魏英傑・郭敬明の『盗作に理あり』は誰の罪」中国青年
報・6月5日)

 確かに、わたしの周囲の若者たちと話していても、感じるのは「出発点が違う」と
いう点である。それはすべてのポスト80年代の若者が皆、非倫理的、非道徳的とい
う意味ではない。ただ、彼らを取り巻く社会、いわゆる法律や法的根拠や、そして社
会の前面に立って語られる理想や根拠というものには、常に抜け道や別ルート(中国
では簡単に「裏門」というが)、別の基準や論理があることを彼らがよく知っている、
というか、そういうものだと認識している点である。

 いや、それは実は若者だけではない。中国の社会において、人々は常にそういった
「表とは別モノ」の存在の可能性を意識して生活している。例えば、自転車道路を堂
々と逆走する裁判所の車とか、西洋人にはにやにやして何も言わない警官とか、順番
待ちなど目に入らぬかのように特別扱いしてもらっている客やそれを接待する銀行員
……、わたしだって生活の中でたびたび目にする光景だ。中国というシステムの中で
どっぷりと生活している人たちはもっと多くのものを目にしているはずである。

 そんな彼らに「規範」や「規則」や「倫理」を押し付ける根拠はどこにあるのか。
郭敬明氏だって言うだろう、「ほらあの、今年の初め、海外の有名ポップスを片っ端
から真似てアルバムを作って売り出した、あのポップスバンド…」。あの時もたしか、
叩かれて叩かれて最後の最後にバンドは盗作を認めたが、レコード会社は謝らなかっ
たんじゃないかな。

「盗作ということだけとっても、ここ数年来明らかになっただけでもどれだけあるの
か? 大学講師から博士課程指導教授、一般論文から国の重点テクノロジー研究プロ
ジェクトと、どれだけの人がこのために学術上において恥を背負わされ、またどれだ
けの人がその事実が明らかになってもそれを認めようとしないか。そのほかの分野に
出現している問題、汚職や腐敗、政治成績プロジェクト、ニセモノ悪質商品、それで
もまだまだたりないとでもいうのか。『成人たちの世界』のさまざまな怪現象が、間
違いなく『ポスト80』『ポスト90』の心を曇らせ、さらには彼らの行為の手本に
なっている」(「郭敬明の『盗作に理あり』は誰の罪?」中国青年報・6月5日)

 客観的に見ると、盗作。でも、自分ではそれを認めない。そうすることで罪の意識
を軽くすることが出来るのだろうか。

 しかし、中国社会にそれを考えさせる事件が起こる、いや、たぶん、起こった事件
をそういったレベルから考えて口にする人たちが出てきていることが重要なのだ。そ
れについては、それが「コピー天国」中国の大気候の中においてまだ小さな芽であっ
ても記しておきたい。


ふるまいよしこ
フリーランスライター。北九州大学外国語学部中国学科卒。1987年から香港在住。
近年は香港と北京を往復しつつ、文化、芸術、庶民生活などの角度から浮かび上がる
中国社会の側面をリポートしている。著書に『香港玉手箱』(石風社)。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4883440397/jmm05-22
個人サイト:http://members.goo.ne.jp/home/wanzee

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有名中国人が中国で他人の小説をコピーしたのがバレたらしい。

でも、謝らない。みんなが規則違反をしているのに、

なぜ自分だけ謝らねばならないのかと思っているのだろう。

それとも、中国人は金は払うが謝らないのが普通なのか。

日本人も、この頑なさを見習って、中国には   も う 謝 る な。

コピー商品を作らせないように日本政府がもっと中国政府に

ガンガン文句を言え!アメリカなんか、中国にしっかり文句を言っている

ではないか。