猫のB君を記念して、バラの花を植えた。
土曜日に死んだB君の思い出になるようにと、バラの花を買ってきて
庭に植えた。二日ほどするとバラの花は散ってしまった。花が咲いたら
茎を短く切り取ってくださいと説明書には書いてあった。
チューリップも球根を育てるには、花が咲いたら頭を切り取ってください
と説明書に書いてあった。
そのままにしておくと、種に栄養が行ってしまうから切り取るのだろう。
バラの花も種ができると栄養がそっちにいくから花が咲いたら切り取る方が
いいのだろうな。
去年の今頃は、まだN猫ちゃんが死んだショックから抜けきれておらず、
何か心の中に説明不能なもやもや感があって、何か吐き出して出して
しまいたいような気持でいた。N猫ちゃんが死んだ日にも、何か記念の
花を植えたくてシクラメンを植えた。2004年の11月に死んだから、
寒い時期だったのでシクラメンしかなかった。他にはチューリップの球根
12個、季節外れでバーゲンになっているものがあったので、それも
植えた。シクラメンは2株植えたうち、1株はどなたかに勝手に引き抜かれ、
レモンの苗を植えたはずの植木鉢に植えかえられていた。
そして、そのまま枯れてしまった。
残りの株は、きれいな花を咲かせた。今年、チューリップは2本だけ咲いた。
球根を掘り出して干していないのに、去年と同じ大きさの立派な花が
咲いた。N猫ちゃんとは13年間一緒に過ごしたので、いなくなると本当に
寂しく思った。B君とは、何年かしか一緒にいないのだが、いなくなると
やはり寂しい。B君の姿をつい探してしまう。
先住のN猫ちゃんやA猫ちゃんに気を使ってひっそりと過ごしているB君
だったが、N猫ちゃんには恋をしていて常に追い掛け回していた。
去勢手術は終わっていたが、気持は残っているようだった。
N猫ちゃんにとっては迷惑なB君だった。
B君は頭のいい猫で、「B君。おいで。」と言うと来るし、ベランダにいるB君に
「B君。帰りましょ。」と言うと、ちゃんと部屋の中に帰ってきた。B君が
A猫ちゃんの側を通ると、A猫ちゃんは気が強い猫なので、いつもB君の
背中をバア~ンと叩くのだが、B君は体はA猫ちゃんより大きいのに
やり返しもせず、おとなしくていい猫だった。病気で体が弱って息をする
のも辛そうなのに、喉をティシュでなでると喜んだ。N猫ちゃんもそうだった。
病気なのに嬉しくなって小さくゴロゴロ喉を鳴らしているのが不憫だった。
年を取ると、腎臓や肝臓が弱って黄疸が出て、尿毒症になって死んで
しまうのは仕方が無い。分かっていても飼い猫が死ぬのは辛い。来年の
今頃、バラの花が咲いたら、B君からのプレゼントのように感じるのかな。
チューリップが咲いたときは、N猫ちゃんのプレゼントのように感じて
嬉しかった。N猫ちゃんが死んでから急に庭いじりをするようになった。
庭をお花だらけにしておくことで、N猫ちゃんがいない寂しさを紛らわし
ていた。それでも悲しみは消えなかった。実は今でも消えてはいない。
ただ、N猫ちゃんがいない日々に慣れたのだった。慣れるということは
大切な事なのだ。お花だらけのきれいな庭もいいもんだ。ブログを書く
日々もいいもんだ。コメントを書いてくれる人もいてありがたいが、
他の人のブログを見るとたくさん書いてもらっている。友人A子によると、
わたしのブログは「冷たい感じ」なのでコメントが入らないのだそうだ。
たしかに「温かい感じ」ではない。
コメントのつかないブログでも、誰かが読んでくれているようで、ブログの
訪問者とランキング欄には記録が残っている。変なエロサイトに誘導する
コメントやトラックバックがいっぱい付いている時もある。こいつらの機械が
操っているような訪問でもカウントに入ってランキングが上がっているの
だろう。読んでくれている人のためになるようなブログを書きたいと思う。
何よりも、このブログは自分が読みたいと思うようなブログであってほしい。
元気の無い時も元気が出るようなブログがいい。でも、人に媚びたり
しないで、堂々と自分の思ったことを書いていたい。
非難されても無視して自分に正直でありたいのだ。怒りっぽいのは
喘息だからかもしれないし、更年期障害が出ているのかもしれないし、
N猫が死んで寂しいからかもしれない。中国にうらみを持っているから
かもしれない。無償ODAを3兆円以上与え、さらに貸し出しのODAを
3兆円以上貸して差し上げているのに、ずうずうしいコメントを入れや
がって、、。(やっぱり、怒りっぽいか?)おとなしすぎる日本人に代わって
わたしが普通の感覚で怒っているだけさ。わたしには怒らない人の気持が
分からない。シクラメンもバラもブログも全部わたしの心がカタチになった
ものだ。わたしは猫と日本人を愛しているのだ。