レケオ人とジャンポン島の話
1515年当時、琉球人がシナ(福建)マラッカからきた商品の貿易を
していたことと、影の貿易の主役が日本であるということが書かれた
本がある。
これを書いたのは、マラッカにやってきたポルトガル人のトメ・ピラス
という人で、1516年2月にマラッカに到着し、そこでシナに関する
知識を仕入れた。シナ人は脆弱で脅せば言うことをきくとマラッカで
教えられ、そのまま1517年8月にカントンに入り、シナにポルトガル
との貿易をせまって砲弾を撃ったりしたので、シナ人に捕らえられ
シナで客氏した。トメ・ピラスは1524年まで生きていた。
この本を書いたのは、1515年1月以前と思われている。
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琉球・日本の節では、まずもって琉球人が取り上げられる。
彼らは、マラカではレケオ人とか
ゴーレス人とか呼ばれていた。彼らは、独特の形をした小船の他に
「ジュンコは3、4隻持っているが、かれらはそれをたえずシナから
買い入れている……かれらはシナ〔福建〕の港で取引をする。
それはシナ本土にあり、カントンに近く、そこから一昼夜の航海のところに
ある」という(諸国記、p.248)。なお、琉球船の指定入港地が福州と
されているので、それらは密貿易船ということになる。
その交易について、トメ・ピレスによれば「かれらはシナに渡航して、
マラカからシナへ来た商品を持ち帰る。
かれらはジャンポン〔日本〕へ赴く。それは海路7、8日の航程のところに
ある島である。
かれらは、そこでこの島にある黄金と銅とを、商品と交換に買い入れる。
レキオ人は自分の商品を自由に掛け売りする。
そして代金を受け取る際に、もし人々がかれらを欺いたとしたら、かれらは
剣を手にして代金を取り立てる」とある(諸国記、p.249)。
琉球人が、マラッカに持ち込む「主要なものは、黄金、銅、あらゆる種類の
武器、小筥、金箔を置いた寄木細工の手筥、扇、小麦である。
それらの品物は出来がよい。かれらは黄金を多量に携えて来る。
かれらはシナ人よりも正直な人々で、また恐れられている。
かれらは多量の紙と各色の生糸を携えて来る。
また麝香、陶器、緞子を携えて来る。また、かれらは玉ねぎやたくさんの
野菜を運んで来る。
かれらはシナ人が持ち帰るのと同じ商品を持ち帰る」という(諸国記、p250)。
琉球が中国船とともに自国製の船を併用していたこと、そして来航する
ジュンコは3、4隻、後段では1隻ないし2、3隻としていることが注目される。
そして、琉球の海上交易が中国と日本に対する中継交易であったことが、
それなりに示されている。
琉球人の気質について、トメ・ピレスは「われわれの諸王国でミラン〔ミラノ〕に
ついて語るように、シナ人やその他のすべての国民はレキオ人について語る。
かれらは正直な人間で、奴隷[や娼婦]を買わないし、たとえ全世界とひきかえ
でも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。
かれらはこれについては死を賭ける。
レキオ人は偶像崇拝者である。もしかれらが航海に出て、危険に遭遇したとき
には、かれらは、『もしこれを逃れることができたらと、1人の美女を犠牲として
買い求め、ジュンコの舳で首を落しましょう』とか、これに似たようなことを
いって〔祈る〕。
かれらは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と
まとめている(諸国記、p.248-9)。
琉球は、Webページ【2・3・2 東アジア、朝貢と密貿易、琉球の世界】
に
おいて述べたように、15世紀半ばから16世紀初めにかけて、朝貢交易に
名を借りた中継交易国として登場し、中国の明とその朝貢国のダミーとなる。
しかし、16世紀に入ると、海寇と密貿易がはびこりだし、そしてポルトガルが
進出するようになると、琉球の役割は終わる。こうした琉球人が活躍した一
端を、トメ・ピレスは書き留めたといえる。
こうした琉球の情報の付けたりとして、ジャンポン島が示される。
以下が、そのすべてである。
「すべてのシナ人のいうところによると、ジャンポン〔日本〕島はレキオ人の
島々よりも大きく、国王はより強力で偉大である。それは商品にも自然の
産物にも恵まれていない。国王は異教徒で、シナの国王の臣下である。
かれらはシナと取引をすることはまれであるが、それは遠く離れている
ことと、かれらがジュンコを持たず、また海洋国民ではないからである。
レキオ人は7、8日でジャンポンに赴き、上記の[シナに持ち込むのと同じ]
商品を携えて行く。
みなレキオ人がジャンポンから携えて来るものである。
レキオ人はジャンポンの人々と漁網やその他の商品で取引する」という
(諸国記、p.251)。
室町時代の日本は、「商品にも自然の産物にも恵まれない」、
また「ジュンコを持たす、海洋国民でもない」とみなされている。
(と、記録している。)
そして、琉球人がマラッカで支払いに充てる「黄金と銅」が日本で調達して
いることを、しっかりと見て取っている。
↓
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/column/page012.html
15世紀の中国人は、日本の王様を、シナの国王の臣下であると言っている。
昔からずっと偉そうな民族なんだね。シナ人は、日本のことを
「商品にも自然の産物にも恵まれない」、
また「ジュンコを持たす、海洋国民でもない」とみなしているが、
本当は、琉球人が、日本から芸術品や金や銅をもってきていたのだ。
室町時代は日本は明とかかわりたくなかったのだ。たぶんシナ人に
偉そうにされるのが嫌だったからだろう。シナは、ひれ伏して拝まないと
貿易させてくれなかった。だからシナとの貿易は表向きは禁止されていた。
そこで一部の地方の人(薩摩藩)は、琉球人にたくして、シナで
外国と貿易していたんだ。昔は中国はシナと呼ばれていた。(福建)
シナという呼び名から中国がチナとかチャイナとか呼ばれるようになったのだ。
室町時代と言えば、町人文化が発達していて、美しいものがたくさん
作られた時代だよね。
「主要なものは、黄金、銅、あらゆる種類の
武器、小筥、金箔を置いた寄木細工の手筥、扇、小麦である。
それらの品物は出来がよい。かれらは黄金を多量に携えて来る。
かれらはシナ人よりも正直な人々で、また恐れられている。
かれらは多量の紙と各色の生糸を携えて来る。
また麝香、陶器、緞子を携えて来る。また、かれらは玉ねぎやたくさんの
野菜を運んで来る。」
日本では昔から小麦も作られていたんだね。
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ウィキペディアから:室町時代と琉球貿易
1492年に中山王尚氏 が三山を統一して琉球王国 を建国すると、
明朝の冊封を受けた。
国家の経済を貿易に頼る琉球王国は明のほか、朝鮮、マラッカ王国 や
パタニ王国 、安南 やアユタヤー王朝 などの東南アジア にも及ぶ
広範囲で独自の中継貿易 を行っていた。
1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を
贈っており、1441年には足利義教が琉球を薩摩国の島津氏 の属国と
する事を認めており、さらに幕府には琉球奉行が設置されて貿易の
統制を行おうとしており、室町時代には琉球が「日本」として認識されていた。