尖閣諸島
各歴史書を基に中国は次のように主張している。「この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆(キールン)とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島が中国領であることは、これによってもまったく明確である。」
しかし、中国が主張するように尖閣諸島が台湾に属するのであれば、尖閣諸島は明らかに日本領である。明王朝(1368-1644)の歴史を記した正史の『明史』は、1679年から着手され、60年の歳月を費やして1739年にやっと完成、刊行した勅撰歴史である。『明史』はミャンマー、ラオスについて雲南の「土司」(=外蕃)列伝のなかで同列に記述しているのに対し、「鶏龍国(けいろうこく)」(=台湾)は「日本に属す」と外国伝の日本、呂宋(ルソン島)の間に併記している。そして清代(1644-1911)の官定史書にも、台湾の領有権については、「日本に属する」と公的に記録されている。例えば、乾隆版『大清統一志』には、「台湾は古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」と記述している。
明治維新後の1871年、琉球の宮古島の住民66人が台湾南部に漂着し、54名が「牡丹社」という部落民に殺害され、残る12名が命からがら帰国するという「牡丹社事件」が起こった。外務卿副島種臣が1873年に北京を訪れ、清国政府と直接交渉したところ、台湾の住民は「化外の民」で「教化の及ばぬところ」とし、清国政府は事件の責任を回避した。
結論
中国(明・清)の行政が及ばない台湾から、更に遠くにある尖閣諸島を自国の領土であるとするのには無理がある。従って『順風相送』や『使琉球録』などで尖閣諸島のことが記載されていても、それらが直ちに中国の尖閣諸島領有の国家意思とはならないのである。また、中国から琉球への使節団よりも、琉球から中国への使節団の派遣回数の方が圧倒的に多いことから、尖閣諸島に対する知識も日本人の方が正確であった。