聖書のメッセージ
人間には肉体の欲や目の欲、
誇り高ぶる欲などがあります。
肉体の欲は、食べたいとか寝たいとか、
異性と付き合いたいとか、いろいろなものがありますが、
欲自体は悪いものではなく、全ての欲は、神さまが
人間に与えた良いものです。
けれども、自分だけを愛する気持ちで
それらを使うと「自己中心」と呼ばれる罪に
なるのです。たとえば、自分の子供がお腹を
すかせて泣いているのに、自分だけ
高くておいしいものを、子供の目の前で
食べている親がいたらどうでしょう?
それは「自己中心」であり、愛の無い行為です。
それが「罪」なのです。
目の欲とは、自分の目で見たものを
楽しむ行為です。
また、目では見ていないが、頭の中で
想像して楽しむ行為です。
美しいものを見て楽しむことは、罪ではありません。
それを自分の欲のために使うことが、「罪」なのです。
また、出来もしない事を、誇ったり、自分の実力を
越えて誇ることも、「罪」です。
聖書によると、人間はどんな人でも無意識にたびたび
罪を犯しているということになります。
ある人間に愛がなければ、いろんな場面で、愛の無い行いを
選んでしまいます。つまりその人間の行動パターンが、
自己中心になります。常にいろんな場面で「罪」を選ぶ行動を
起こしてしまいます。
神さまは人間を愛しておられます。
神さまは人間を愛する対象として創られました。
でも、人間には神さまを愛するか、神さまを愛さず、
神さまではない霊(れい)を拝むかを、選ぶ権利があります。
なぜなら、神さまを愛することは、自発的になされなければなりません。
神さまを選ばない場合、自動的にこの世の支配者である、
悪の霊(れい)を選ぶことになります。悪の霊とは、神さまに
逆らった天使の長で、「悪魔」と、呼びます。
悪魔に従う霊(れい)が悪霊(あくれい)です。
人間が、木や石でできた偶像を拝むとき、実は物ではなく、
その背後にいる悪霊(あくれい)を拝んでいるのです。
人間やこの世界の全てを創造された、ただ一人の神さまを
拝まないことは、そのほかのモノ、つまり悪魔とその手下を
拝んでいるというわけです。
ある人は、太陽に向かって手を合わせます。
ある人は、食べ物に向かって感謝して手を合わせます。
確かに、それらがなければ、人は生きていけません。
でも、人間のために地球を用意された神さまに感謝もせず、
神さまが創られた物に対してだけ感謝を表現するなら、
それは神さまに失礼な行為をすることです。
たとえば、あなたが友達を家に呼んでもてなし、
食べ物や飲み物、寝る場所を用意し、
いろんな場所に連れて行き楽しませてあげたとしましょう。
もし、友達が、あなたに「ありがとう。」と言わず、
食べ物や見る物全てに向かって、
「ありがとう、ありがとう。」と、言っていたらどうでしょう?
あなたは、「え?」と、不満を感じてやるせない気分に
なりませんか?
全てを用意したのは、あなたです。
あなたの友達は、物に対して感謝をするのではなく、
全ての物を用意したあなたに感謝するべきですね?
あなたも、物を拝まず、それらを造られた神さまを
拝むべきなのでは?
あなたの命はどこから来たのでしょう?両親から?両親の命は
彼らの両親からですね。先祖は、あなたのルーツとして大事な
存在です。会ったことがない、昔の人でも、その人がいなければ
あなたは今、存在しなかったのです。
でも、つきつめていけば、人類の最初の両親がいるはずです。
その二人の人間は、どこから来たのでしょう?
日本では、それはサルから進化した人々だと、教科書で
教えます。先祖を大事にすると言いながら、先祖はサルだと
平気な顔で、日本人は言います。
命は偶然にできあがるものではありません。
聖書には、人間はこの世に存在する物、全てを見れば、
それらを造られた創造者がおられるのを知っているのであり、
弁解の余地はありませんと書いてあります。
最初の二人の人間は、神さまが創ったアダムとエバで、神さまは
エデンの園で二人を試したと聖書に書いてあります。
聖書は「神のことば」と呼ばれる本で、
最初の人類は、神さまを愛さず、自分の欲を愛して、
神さまから離れました。食べてはならないという命令を聞かずに
悪魔の声に耳をかたむけ、ある木の実を食べたのです。
その時から、人間の心に罪が入り込み、そこから自己中心からくる
ねたみ、人殺し、ウソなどが、人間の世界に入り込みました。
今の世界はその延長です。
自分さえ良ければいいという考えで、戦争が起こります。
病気や事故や自然災害が起こります。
この世界は、罪のせいで汚されてしまい、不公平で悲しい事件が
どんどん起こる場所になりました。
神さまは、神さまから離れて、罪の問題に苦しむ人間を救うために
救い主を送ると、アダムとエバに約束を与えました。
罪の無い、神さまのひとり子、イエス・キリストを送るという約束です。
(父である神さまに対して、子のような関係の神さま)
キリストとは、「救い主」という意味で、イエスはインマヌエル、
「神が共にいます。」という意味です。
罪の無い神さまそのものが、人間になり、罪のある人間の
身代わりに、大勢の目の前で、
父である神さまに裁かれて死んだのです。
神さまは、罪人の人類を裁く代わりに、罪のないご自分の
ひとり子を裁き、その苦しみを見て、罪の裁きが「終わった」ことに
されました。イエス・キリストは聖書の預言に従って、三日目に
よみがえり、大勢の見ている前で天に帰られました。
その時から、クリスチャンたちは猛烈な勢いで世界中に
神さまの福音(ゴスペル=良い知らせ)を伝えだしたのです。
人間は産まれた時からの罪人ですが、神さまは、その罪を
赦すことができます。すでに裁きは、罪の無い人間
(人となって来られた神のひとり子)が受けたので、
裁きは「終わった」のです。
あなたが、犯した罪も裁きは「終わって」います。
これを信じる者は、罪を赦され、救われるのです。
神さまがおられること。自分は罪人であること。
このまま死ねば、罪の裁きを受けて地獄にいくしかないが、
神さまが罪の裁きを、イエス・キリストを送って、
終わらせてくれたこと。それを信じるだけで救われるのです。
それほど、神さまは罪を憎んでおられるということであり、
それほど、神さまは、人を愛しているということです。
神さまの愛を信じますか?
神さまがいるなら、どうして人間には苦しみがあるのでしょう?
いろんな不公平や病気や事故があるのでしょう?
どうして、悪い人が幸せそうで、良い人がいじめられるのでしょう?
それは、この世界に罪があり、この世を支配しているのは
悪魔と悪の霊たちだからです。
そんな中でも、神さまは、世の中の矛盾や苦しみを通し、
人間が神さまの元に戻るように、とりはからっています。
あなたも神さまが救いたいその一人なのです。
心の中で、神さまに語りかけてください。
「神さまを信じます。」でもいい。
「罪を赦してください。」「天国に行きたいです。」でもいい。
「イエス・キリストが救い主だと信じます。」でもいい。
「神さまがいるなら、教えて。」でもいい。自分の言葉で
神さまに語りかけてください。
神さまは、ひとりひとりに試練を与え、人間が神さまについて、
人生について、どこから来て、どこに行くかについて、
何のために生きるのかについて、深く考えさせるチャンスを
与えます。神さまの呼びかけに答えて、罪を認め、神さまを
認め、神さまがあなたの罪を赦し、死後の裁き(地獄)から
あなたを救い、生きている間もずっとあなたを導き守られることを
認めてください。
生きている間とは、神さまに出会うための時間です。
一度しかない人生は、神さまに帰る時間であり、
死後に続く神さまの住まいである天国で、永遠に生きることを
あなたが選ぶ時間なのです。
生きている間に、神さまと親しい関係に戻ることが必要です。
あなたが祈る相手は、もう悪魔や悪の霊ではなく、
あなたを創った、あなたを愛する神さまなのです。
いつかあなたの命が体を離れるとき、(死ぬとき)
神さまがあなたを天の神さまの住まいに迎え入れてくださいます。
生きている間に神さまに出会えば、神さまが人生という旅を
あなたと一緒に歩いてくださいます。
そして、あなたの心に愛を与えてくださいます。
無理に努力する必要などありません。心の中に神さまが愛を
与えてくださいます。もう未来を恐れ、人を恐れ、悪の霊を
恐れる生き方はする必要がありません。
神さまはあなたを愛するために、あなたを創られたのです。
命を創られた神さまは、あなたの父親のような存在です。
人間の親は、神さまがあなたをこの世に創り出すために
使用された人間であり、彼らもまた神さまにとっては大切な
存在です。しかし、あなたの魂(たましい)の親は神さまです。
神さまは、ひとり子を人としてあなたの罪の罰を身代わりに
受けさせるために、この世に遣わされました。
それは、神さまのひとり子を信じるあなたが、死後に地獄に
落ちて永遠に裁かれることなく、天の神さまの住まいで
永遠に生きるためなのです。