陛下をお救いなさいましー河合道とボナー・フェラーズ
岡本嗣郎著「陛下をお救いなさいまし ―河井道とボナー・フェラ ーズ 」
(ホーム社、H14)は、クリスチャンの河合道が、ボナー・フェラーズに
日本人にとって、天皇とはどのような存在なのか教え、天皇を救おうと
した日本女性の記録でもあり、河合道の信仰の証(あかし)でもある。
著者は、ノン クリスチャン。
河合道は、神さまを信じる立場らしく、常に戦争には反対の立場を取っていた。
戦争が始まる10年も前からアメリカにも出かけて、戦争に反対する
講演も行っていた。
河合道は、ボナー・フェラーズに哀願する。
「日本人はGODを持たない民なのです。」
河合道の言うGODとは、全世界の創造者である、唯一神のGODである。
日本人が言うところの神は、[よろずの神]である。
見えない力である霊(れい)である。日本人が信じる神は、アミニズムの
霊(れい)であり、先祖崇拝であり、多神教独特の自分に都合が良い結果
を与えてくれる何かに期待する偶像である。
ある時は、交通安全の神に手を合わせ、ある時は恋愛の神に、
ある時は、受験の神に、わずかな賽銭と、かしわ手で願えば、
願い事を聞いてくれる都合のよい神なのである。
女性ならば、嫁ぎ先の宗教に従い、イスラム教の相手とも、結婚する
ためには簡単に入信する。なんのためらいも無く、日本国内でも
外国でも、なんにでも手を合わせてありがたがるのが日本人の神なの
である。
そんな日本人の共通のよりどころとして、戦争時は「天皇」が、
現人神(あらひとがみ)として担ぎ出され、礼拝の対象とされた。
河合道は、それは天皇が悪いのではないと伝えたかったのだと思う。
日本人は、全ての目に見えるものとその背後にある霊(れい)を神として
拝む民族であり、死んだ先祖を祭り、先祖崇拝の延長として、
古からの王族である天皇を日本民族の代表者として敬愛している。
GODを知らない民族であり、全てのものを礼拝の対象としてしまう
日本民族にとって、天皇を神として拝み団結することは、自然なことでも
あったが、それは軍部の作戦であり強制でもあった。
河合道は、クリスチャンである自分は、天皇をGODとしては拝まないが、
個人的には天皇を民族の代表として、父のように心から敬愛しているのだと、
それを理解してくれと、ボナー・フェラーズに河合道は頼んだのだ。
GODを知らない民族の「勘違い」を許し、天皇に対する国民の深い親しみ
の想い尊敬の念を理解して、天皇を罪に陥れないでくれるようにという
河合道の頼みは受け入れられた。
河合道はクリスチャンであるが、天皇に対する尊敬の念は、日頃から
きちんと表現する人であった。天皇の写真を礼拝することはしなかったが、
皇居に向かって、礼をする儀式は生徒に守らせた。
(それは河合道にとっては礼拝ではなかった。)
クリスチャンによっては、敬愛の念を表明することは罪ではないが、皇居に
向かって礼をすることは罪だとして、拒否する人もいた。
それは個人の信念によって異なってくるものなのだろう。
(わたしは、皇居に向かって礼はしない派。憲兵に牢獄で殴り殺される派。)
河合道の場合は、それを拒否することは、経営している女学校が廃校に
される事であったし、単なる敬愛の「しぐさ」であると信じたのだろう。
マッカーサーは、まず天皇に天皇も一般市民と同じ人間であるという
「人間宣言」を国民に向けては発表させ、本国にボナー・フェラーズが
まとめたレポートを送り天皇の命乞いをした。それが本国に認められて、
天皇は裁判にかけられることなく、辱めも受けずにすんだ。
河合道は、信者になった生徒に洗礼を強要したが、それは頑固で一途な
学校経営者として当然の行為であったと思う。
彼女の学校なのだ。嫌なら辞めればいいのだ。
戦争の最中に、憲兵の恫喝にも負けず、天皇の写真を拝まず、生徒にも
拝ませなかった女校長先生が、ちょっとぐらい信仰面で生徒に厳しく
接しても、昔の事だから、ありえた話だ。
著者は激しく彼女の行動を非難しているが、
わたしは、いかにも頑固な女校長らしいエピソードだと、思った。
結局その生徒は、父親の意見に納得し、洗礼を受けることになる。
「全部、理解できなくても、神さまを信じたら聖書の言葉に従ってみると
後で全てが順番に分かってくるんだよ。お父さんはそういう気持ちで洗礼を
受けたよ。」と、彼女の父親は語ったそうである。
頑固でなければ、誰が戦争中にキリスト教を教える女学校を経営することが
できただろう。河合道は神さまを愛し、人を愛し、天皇を愛し、日本を愛した
ひとりのクリスチャンの日本人だ。聖書の教えに従って、信じる事を行った
彼女だからこそ、ボナー・フェラーズの心を動かし、天皇を救う働きを補助
することができたのではないか。