傷つき易い人に。
傷つきやすい人は、どうやって、日々生きていけばいいのか?
毎日、世の中の人を傷付ける人と一緒に生きていかなければ
ならないのだから、傷つきやすい人は大変だ!
そういうわたしも以前は傷つき易い人だった。多分今でもそう
なのだけど、長年人間をやっていると何となく傷つかないで
生きていけるコツが掴めてきたような気がする。何しろ年齢が
OBAHANなので、ぼちぼち居直っていないと、どうしようもない。
傷つき易い人を思いやって、人を励ます側に立っていないと
いけない。傷つきやすい人とは、プライドがある人だ。プライドが
あるのはいいことなのだが、プライドに見合う実力が無い。
そこを人に突かれると、すごく傷つく。「なにくそ!!」と思って、
努力し、実力を付けるパワーがあるなら、傷つくのもいいが、
そうでない場合は、ひたすら傷ついていなければならない。
傷つきやすい人は、自分を防御しないといけないが、心の壁を
作って人の言う事を聞かないというのでは、困ると思う。
人の意見は貴重なもので、誰も忠告をしてくれなくなったら、
寂しいものなのだ。わたしも、会社の女の子に忠告はたまに
するが、何を言っても改善の余地が無く、逆にくってかかる
女の子の場合、忠告はしなくなる。
他人が躾け損なった子供を、なぜわたしが必死で教育しないと
いけないのだ。それでも、以前わたしが忠告したことは、きっと
その女の子の役に立つ日があると思うので、忠告したことには
後悔はしていない。忠告しなかったら、もっと平穏無事な毎日が
あっただろうとは思うが。
傷つき易い人は、人の忠告を「愛」のひとつの形だと思って受け入れ
ないといけないが、忠告が正しいのか自分が正しいのか、それは
自分で選別しなければならない。
自分のしたいことが、法律や道徳に反していないならば、自分の信じる
ことに他人が文句を言っても傷ついたり、相手に対して怒ったり、
相手を逆に傷つけたりしてはいけない。
先ず、自分のコンプレックスが何か、自分でしっかり分かっていないと
いけない。大抵の人は、コンプレックスを突かれると傷つくのだから。
そこで、そのコンプレックスというのは、国の基準に対しての
コンプレックスなのか、日本独特の基準に対するものなのか、
親の基準に対するものなのか、別の何かに対するモノなのかを
自分で分かっていないといけない。
何が幸せなのか、みんな違うと思うので、全ての人は、自分の
基準というものを持っていないといけない。
そうでないと、少しでも基準に外れると、一生幸せになれない。
他人や社会の基準で、自分の幸せを決めるクセを持つと、一生
幸せになれないと思う。
ただし、その基準というものは、人として間違いの無いものでないと
いけない。たとえば、他人の命を奪ったり、他人の体を無理矢理使って、
自分の欲を満足させることを良いと思うような基準ではいけない。
わたしの場合は、クリスチャンなので、基準は神さまの言葉だ。
つまり聖書が基準なのだ。
自分を愛するように他人を愛するのが基準だ。
自分のコンプレックスが何かとか、自分の幸せは何かとか、
自分の基準が自分ではっきり分かっていたら、他人の言葉も
「愛」として受け止められる。
明らかにイジワルな心からイジワルな言葉を投げかけられたら、
その人の状態をチェックし、その人の体調や育ち、現在の生活に対する
満足度などを観察する。それで、同情できる場合は、「かわいそうに。」
と、思ってうけながす。性格がどうやっても合わない相手もいるので、
そういうタイプが、上司だったり、義理の母親だったりした場合、
なるべく会わないようにする努力をするしかない。人間はいろんな
タイプがあるので、どうしても合わないタイプだって、世の中には
いるのだ。生きていればそんな人とも遭遇する場合もある。
会社の人なら、昼休みは、その人がいない場所で食事をする
努力をしよう。
家に一緒に暮らしている人なら、なるべく会わないよう、時間を
調節して逃げ回る努力が必要だ。そして、相手に同情することだ。
愛を持って同情する。
「かわいそうに。性格が合わない部下を持つなんて。でも、わたしの
せいじゃないわ。わたしも同じように被害者でもあるんだから。」と、
居直る。そうすると冷静にふたりの関係を分析できる。
できれば、愛を持って彼、彼女を観察する。そして困っている時に
ここぞとばかりに親切をする。たとえ感謝してくれなくても、助けを
断られてもかまわない。親切を積み重ねるのだ。人間として、
正しいと信じることをするのだ。相手が反発してもかまわない。
あなたが、あなたの基準で行動していればいいのだ。
(相手が異性の場合は、異性として好意を持っていると勘違い
されないように、お気を付けてくださいね。)
なるべく離れているのがベストだが、ここぞというときに、思い切り
優しくするのだ。悪人だって、自分の好きな人には優しいのだ。
悪人の出来ることはあなただって出来る。でも、あなたを嫌う人で
あなたも嫌いな人でも、彼、または彼女が困っているとき、
助けるのは、「人として」正しい。「ざまあみろ!」と、思って笑うだけなら
誰でも出来る。自分の基準がきちんとあるなら、正しいことを
するのが、あなたの「普通」なのだ。あなたの「普通」を持って、
ブレないことが大切だ。あなたの好きな人が道で倒れていたら、
あなたは多分、救急車を呼んで病院に連れて行くだろう。
あなたの嫌いな人が、道で倒れていたら、どうだろう?やっぱり
同じ事をするだろう。それと同じ事をもっと日常的に、会社や家で、
嫌いな人に対して、行うのだ。親切を積み重ねるのだ。
イジワルで合わない人には、「人間愛」が最善の武器なのだと思う。
それと理不尽な事をされたり、言われた時は、黙っていないで
抗議をすること。イジワルな人でも、「ちょっと言い過ぎたかな?」
ぐらいは、表には表さなくても、少しは感じてくれると思う。
また、傷つきやすい人は、自分の状況を正しく認識していることが
必要だと思う。
なぜ、自分にコンプレックスがあるのか、人の基準で自分を評価して
いるからなのか?幸せの基準を他人や世間に求めていないか?
幸せの基準は、本当に自分の体と頭の求めることなのか?
もしそうなら、人の言葉に傷つくことなく、あらゆる努力をして、
自分の幸せを探してみる努力はするべきだ。
自分が何をしたいのか、何が欲しいのか、はっきり分かっていない
人は、いきなり他人の言葉に傷つけられる。もし、自分の弱さが
分かっていれば、人が言いそうな事が予測できているので、
わずかでも耐性ができているので傷つきにくい。
傷ついた時の自分の体調はどうだろう?寝不足ではないのか?風邪を
ひいていないか?疲れが溜まっていないか?どこかに不調はないか?
年齢的に考えられる隠れた病気はないか?
体調が悪い場合、「自分がこれほど傷つくのは、体調が悪いからもある
ので、傷つくのは当然だ!」と、居直ること。
しらない間に精神的の病にかかっていないか?1ヶ月、気分が優れない
場合、うつ病の可能性もあるそうだ。治療によって、精神の状態が正常に
戻り、元気になって傷つきにくくなる場合もあるのではないか。
少しでも健康になれるよう、生活のパターンを変えて、「なにくそ!」
と思う気力を付けて欲しい。コンプレックッスをはねとばして実力を
付けるパワーに変えて欲しい。
体調や精神が調子が悪い場合は、自分をいたわって、
「傷つくのは元気になった後にしよう。」と考えて欲しい。
事故にあったり、病気になったり、事件の被害者やえん罪にあったりした
場合は、普通の生活では信じられないぐらいのストレスがかかる。
えん罪などで、誰も自分を信じてくれない場合でも、神さまが全て
分かっていてくださると、神さまの存在を信じて、ひとつひとつの事件に
対処し、希望を神さまに持って生きる人は強い。
希望がある人は、戦える人だ。
人は時には、つらい事柄に戦っていかねばならない。
自分のために、未来の同じような事件に巻き込まれた被害者のために、
同じような辛さを味わう人が、これ以上増えないために、戦わねば
ならない時がある。
辛いけれど、そんな使命感を持って生きねばならない場合がある。
傷つき易い人も、気を強くしなければ生きていけない場合がたくさん
ある。必要なのは、仲間だ。どんな時にも助けてくれる人が必要だ。
同時に、本当にあなたが間違っている時に、教えてくれるのも友達
なのだと思う。
本当に一人で生きていけない時に、励ましてくれるのも友達だ。
親友と呼べる友達は、ひとりはいないと生き辛い。
わりと経営者は、人に相談できない辛さをたくさん抱えているので、
親友が出来ずに孤独なのだそうだ。できれば親友は学生の時に
作っておこう。または、相談事などしなくても、時に学生の時の友人に
わざと会うのもいい。肩書きや、地位に関係のない、学生の頃の
気分で語り合える時間がたまにあってもいい。
親友がいる幸せな人も、100%安全な訳ではない。
親友と思っていたその相手に傷つけられる場合もあるので、神さまを
信じるほど、全面的に人を信じてはいけないのだと思う。
人間は時がすぎれば変化していくものだし、その時の体調や
周りの環境や付き合う人や、変な宗教によって、いくらでも変わる
ものなので、常に「許す気持ち」を持っていなければならない。
友達を許す気持ちと自分を許す気持ちは、同じ気持ちだ。
自分だって、いつのまにか友達の好みでは無い方向に変化している
かもしれないし、体調が悪くて友達の要求に応えられない状態に
なっているのかもしれない。
自分を本当に一人の人間として、愛して大切に出来る人は、他人に
対しても、一人の人間として大切にできるし、自分を許せる人は、
他人の失敗や不用意な言葉も許せる人だ。素敵な人はいるけど、
完璧な人はいない。みんな、心の中は、同じなのだと思う。
ただ、知性や教育などで、自分をコントロールしているか、
していないかなのだ。他人に腹が立って、「この人さえいなければ。」
と、思うことと、「人殺し」は、聖書によれば同じ罪だ。
実際に行動に移したかどうかの差なのだ。社会的には、人殺しは
当然裁かれる。神さまは人の上に立つ人は、神さまから権限が
与えられて、社会をコントロールしているのだという。つまり、
国の政治を司(つかさど)る人は、その国をまとめて治める責任があり、
責任が重いだけ、神さまの裁きも当然重いのだという。
法律自体が神さまの基準に合わない場合がある。その場合は
神さまに従うのがクリスチャンだ。神さまの前には、人は平等で、
同じように神さまに愛されている存在なのだが、ひとりひとりの
人生は生まれながらに不平等だ。能力や才能のある者や、
努力する者が人よりも金を儲けるのは当然だ。ただし、病気に
かかった人や、体が不自由な人を、助けるシステムを考えるのが
政府の仕事だ。
金持ちは、ある程度、社会を良くするために、金を社会に還元する
優しさを持つのが当然で、政府はその仲介をしなければならない。
うまくそれが機能している国は、良い国だ。
ようするに、互いに愛しあっている国が良い国なのではないかと
思う。政府は国民を愛して、弱者を良く救済し、金持ちも良く貧乏人や
弱者を助け、お互いに傷つけ合わない国民がたくさんいれば、
その国は、良い国だ。幸い日本は今まであまり犯罪も無く、子供も
女性も夜でも歩ける国なのだが、ここ20年でどうも様子が変わって
きた。基準が違う外国の人々が、無防備な日本を刈っているのだ。
ピッキングや、ATMやデパートでの宝石の展覧会での盗難など、
まるでマンガのルパン3世のような組織的で大がかりな
事件も起きている。
政治家は、しっかり、外国人の犯罪を管理するように働いてもらいたい
と思う。幼児や少女に対する事件も増えてきているが、ちまたに
氾濫している少女を対象に暴行を加えるような内容のマンガやDVDは、
政府が取り締まるべきだ。何が間違っているのか、政府がコントロール
しなければ、恐ろしい事件は減らないだろう。
傷付ける人が減ることが、良い国の基本だろう。
職場や家庭でも、「そこまでいちゃあ、お終いよ。」みたいな暴言を
吐く人が減れば、傷つく人も減るだろう。傷ついた人も、「そんな事を
言わないでください。」ぐらい言って刃向かう元気も必要だ。
なんでも裁判にする前に、まず、その場で刃向かう事が大事だ。
将来その人から、同じような事で迷惑を被る人が減るかもしれない。
正しい道徳的基準を心に持つこと、良い国にしようという気持ちを
政治家も、一般人もみんなが持つことが必要だ。
表現の自由は、大事なので、悪口を言う自由だって必要だし、
それに文句を言う自由だって必要だ。
日本は、基本的に犯罪の少ない良い国だったのだが、対外的には
外国のずうずうしい態度に我慢できず戦争になってしまった。
負けてからは、牙を抜かれたペットのようになってしまい、最近では
周りの国にやられっぱなし。
もう少し、がんがん抗議した方がいいようだ。
国と国の関係でも、やはり国際的におかしな事をする国は、外国に
軽蔑されている。日本は、正しい意見ははっきりと主張するべきだ。
日本人は、あまりにも良い国に住んでいるので無防備だ。
悪い外国人に狙われやすいので、日本でも外国でも気を引き締めて
生きる必要がある。外国では、もっと恐ろしい出来事が起こっている
場合もある。日本よりもっと人に優しい出来事が普通になされている
場合もある。良い所は取り入れ、日本をもっと良くする努力を
みんながするべきだ。日本を愛する気持ちを日本に住むみんなが
持てばいいなと思う。
傷つきやすい人の悩みは、意外と、日本の社会の習慣や風習に
当てはまっていないだけという場合があるのだ。
自分を愛するように人を愛することを基準にしてれば、間違える事は
ないと思う。会社や家やサークルなど、小さな空間では、
「愛」や「同情」こそが最良の武器なのだと思う。そして自分を守る
道具が、自分が正しいと思う基準と、自分を知るという盾(たて)。
自分の基準があれば、何を言われても傷つかず居直ることができる。
もちろん、相手の言い分にも正しいことがあれば、取り入れないと
自分が人として成長できないので、謙虚さも持っていたい。
わたしの場合は聖書のことばが盾(たて)であり武器だ。
自分と性格が合わない人も神さまの目には大切なひとつの命だと
思えば、めったな事はできない。イジワルな人のことは、神さまに
裁きをお任せして、自分の幸せを求めて生きたいと思う。そして、
自分の幸せを求めるように、他人の幸せも求めたいし、日本が良く
なることを願って、選挙で政治家を選びたいと思う。
(わたしのコツがちょっとでも役に立てばいいなあ。)
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余談1:日曜日から風邪をひいて熱があり、ちょっとした言葉にも
耐えられない弱い自分があるのに驚き、このブログを書きました。
元気が出てからある人のきついメールに返事を書こうと
考えています。元気が出てから再度読んだら、そんなにきついメール
でもないのかもね。
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本当に余談です。
余談2:詐欺師に傷つけられないようにするのは、世の中、悪い人が
いるという事実を無視しないで、子供の頃から、グリム童話など、
一見怖い話も読んでおくと良い。最近の童話は、残酷な話しが
カットされて、何でもめでたしめでたしで終わるようになっているが、
世の中そんなに甘いものではないので、童話を改良しないで欲しい。
その割には、「知らない人に話しかけられても、無視しましょう。」という
教育は徹底されているようで、最近の小学生は、話しかけても無視
する子が多いと思う。土曜日に、桜の枝を折って、その枝で桜の枝を
ひっぱたいて花びらを無理に散らして喜んでいる小学生がいたので、
「枝を折ったらダメだよ!」と、注意したが、完璧に無視された。
おまけに反省の色も無く、続けさまに折った枝で桜の花びらを叩いて
花びらを散らしている。花ぐらい無理に散らしても、どうせ散る花だから
かまわないかもしれないが、しばらくたって振り向くと、その小学生が
母親と一緒にお父さんらしき人に写真を撮ってもらっていた。
親が近くにいるのに、子供に桜の枝を折らせるのは、どうかと
思うが、人が注意しても聞こえないフリをする小学生は、
恐いと思った。日本語が通じない宇宙人みたいな感じがした。
子供に自衛させるのもいいが、幼児や少女に興味を抱かせる
ような、いかがわしいマンガやゲームやDVDをまず、
取り締まった方がいいのではないか。
詐欺師に騙されないように、世の中、いい人ばかりでは無いと
いうことを、お年寄りに伝えるシステムも必要で、インターネットが
使えない人たちには、テレビや回覧版で、流行りの詐欺師の手口を
伝えたり、しなければならないと思う。最近銀行に行くと、
詐欺師に騙されて簡単に金を振り込むなという注意書きが出ている。
もっと早く、注意しておくと被害者は減っただろうなと思う。