南京大虐殺はウソ
この悲劇的な人物の人となりを知ることが、この裁判がいかに独善と偏見に満ちた杜撰なものであったかの証明になる。
松井は「兵の罪は我が責なりとして下獄し、無畏(むい)を念じて
いささかも動ぜず、平常心のまま刑に服した」と云われる。
この「昭和の聖将」について、この場でその真実の姿の一端をお伝えする。
裁判の首席検事キーナンの冒頭陳述は英文で4万字に及ぶぼう大なもので、キーナンは「この裁判の原告は文明である」と大見得を切った。
この「原告は文明である」という言葉に、彼らの独善と傲慢が如実に示されている。
これに対して松井は、アジア、アラブ、アフリカを侵略し、植民地化した西欧帝国主義の戦争と、我々日本が戦った日清、日露戦争をはじめとする大東亜戦争は、同じ戦争と
いっても本質的に違う。欧米の侵略戦争は「文明に添った」戦争で、日本の戦った戦争は「文明への反逆」であるとでも言うのか、と強く反駁する。
この松井の戦争に対する思いこそ、今の日本人に欠如している大東亜戦争観
なのではないか。
キーナンは「無警告に南京を攻撃した」として、日本軍が松井司令官の降伏勧
告文を散布し、24時間の停戦猶予を敵に与えた事実さえ無視した。
まさに、最初から予断と
偏見に満ちた裁判だったのだ。
もともと松井は、孫文の唱えた日中提携による大アジア主義に深く共鳴し
ていた。そして日中の親善提携と、アジアの復興を念願していた。
戦火を交えながらも、松井の心底には常に孫文の「大アジア主義」があった
のである。
だから孫文の後継者・蒋介石が北伐(1926~1928年)の途中大敗して、
最大の危機に陥ったときも、松井はこの考えから蒋を支援している。
また、松井は、軍紀にうるさい将軍としても有名だった。
南京攻略に際し、
「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるゆえに、
慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。
特に敵軍といえども抗戦意思を失いたる者および一般官民に対しては、
寛容慈悲の態度を取り、これを宣撫愛護せよ」と全軍に命じている。
南京では、ドイツ人ラーベを委員長とする民間外国人の有志団体である
国際委員会が、難民区という名の安全地帯を設けていた。
南京攻略後ラーベは、松井率いる日本軍に、難民区の安全が保たれたこと
に対する謝意を表明している。
それほどまでに、松井は在留外国人や非戦闘員に被害が及ばないように
配慮していたのだ。
南京攻略直後、(南京)城内を視察、看望した松井は、「概して城内は、
ほとんど兵火をまぬがれ市内、安堵の色深し」と日記にしるしている。
その後、松井は上海に帰り、2回にわたり、内外記者団と記者会見を行っている。
記者会見では、いわゆる“南京虐殺”に関する質問など全くなかった。
松井率いる日本軍は、上海における戦いから南京攻略までの間に、
戦死者2万1300人、傷病者5万人余を出している。
松井は帰国後の昭和15年(1940年)2月に、日中両軍の戦没者の血が
沁みた土を取り寄せ、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立した。
松井はその後、山麓の「無畏庵」と名乗る庵に居住して、毎朝約2キロの
山道を登り、シナ事変の犠牲者が東洋平和の礎石となる事を願って
観音経をあげ菩提を弔った。
ところが昭和21年、極東国際軍事裁判が開かれ、松井はここから
引き立てられて法廷に立たされることになる。
そして、本人が聞いたこともない「南京での20万人以上の虐殺」の責任者
として絞首刑に処せられるのである。
無畏を念じていささかも動ぜず、平常心のままとはいえ、無念の思いを
禁じ得なかったのではなかろうか。
以下の三首は、松井の辞世の句である。
天地も人もうらみずひとすじに無畏を念じて安らけく逝く
いきにえに尽くる命は惜かれど国に捧げて残りし身なれば
世の人にのこさばやと思ふ言の葉は自他平等誠(まこと)の心