中国の食人
既に絶版になってますが『中国食物史』(篠田統著、柴田書店、
初版昭和49年)という篤実な労作があります。
中国史を膨大な資料にもとづき「食」の観点でとらえたユニークな
通史です。そして、著者の偏見なき目配りの良さの一端が
、中国の食人癖について淡々と触れた後述引用の各節にもっと
もよく現れています。ながくなりますが、引用させてください。
なお、頁数は私が保有している初版四刷(昭和52年6月、函入布装)に
依っています。<>は引用者注で、主として用字に関する註です。
(引用開始)p22「春秋に入っても、斉の桓公の料理人易牙<エキガ>も
その国政にあずかっている。
因みに、桓公が美食に飽きて人肉を所望したとき、易牙がわが子を
料理して差上げたことは有名な伝承である。
以後、この国の食物史に人肉食の実例は度々出てくるが、、、、、」
p122-123「唐代をおえるにあたって、この国の食人癖について
付け加えておこう。
飢饉や戦争での食人はしばしば出てくる。一寸前になるが、
南朝梁の叛将侯景は南京城をあれだけの目を<ママ>あわせたので、
人々の怨みは深く、彼が王僧辯<言ではなくりっとう>に捕殺された時、
民衆は武帝の娘なる彼の細君ともども、肉は食べて終い、
骨は焼いて灰にして、酒に入れて飲んでしまった。
が、随・唐以後歴史の表面に大きく出てくるのは、趣味、または嗜好と
しての食人である。
隋末唐初の流賊朱燦<火偏なし>は二十万の手下をつれて天下を横行し、
糧が尽きると所在の民衆を食べている。到るところで小児・婦人を料理して
部下一同に配り、赤ん坊の蒸したのを特に好んだ。
人から人肉の味をきかれると「のんべの肉が一番だ」と答えた。
以上は正史に出ているので、小説、たとえば煬帝の運河開鑿をとりあつ
かった『開河記』などには、もっともっと物凄い例が出ている。
則天武后(在位690~705)の時、杭州臨安の尉(警察部長?)セツ震は
人肉好きで、借金を取り立てに来た男と従者とを共に食べてしまい、
更にその後家さんに魔手をのばしたが、逃げられ、一件発覚して
杖殺された。旋州刺史(長官)の独孤荘も人肉好きだったが、
さすがに人を殺すまではせず、奴婢の死んだのを食べていた。
降って徳宗(在位780~805)の頃の節度使張茂昭は食人の噂が
高かったので、ある人がその噂の真偽をただしたところ、
「アンなもん、生臭くって食えるかい」と答えた。
食べもせずにどうして「生臭い」ことが判るかと評判だった。
キ宗<キはにんべんに喜>中和三年(883)の黄巣の乱の折は、賊が
人肉用の向上を特設し、数百の臼をならべ、良民を生きながら打ちくだき、
ガイ(ひきうす)でひいて骨ごと食用にあてていた。
食用としてではなく、迷信としての食人もあった。『酉陽雑俎』巻九に、
七人組の盗賊が、人肉をたべると人が眼をさまさないからとて、職業上の
必要からいつも人肉を食べていたことが出ている。
唐代における食人の例は、この他にもいくらもあるが、玄宗の開元
(713~742)の頃の医師陳蔵器が『本草拾遺』をあらわし、人肉が病に
効くと書いたから、このような戦時・飢饉時ではなく、全くの平時にもこの
風が多くひろまった。
明の李時珍が名著『本草綱目』において、医師として人道を誤まり、多くの
人を毒したものとして、口をきわめて蔵器を責めている。
さりながら、蔵器の影響は後のちまでも著しく、孝子節婦が親のため、
舅姑のために股を割くことが一種のモードとなった。
元以後、明・清と中央政府は一応これを禁止したが、現実には空文で、
地方官憲はどしどし表彰し、記念碑を建てたりするから、一向なくならない。
今次戦争中、私が北京にいた五年間にも二~三例あったやに記憶する。
但し、表彰されるのは自分の股を割いた場合だけで、他人を殺して医療に
あてる分は厳重に取締られていたが。」
p191「ここで、一筆食人の風について触れておこう。
宋・元の間には唐代ほどはこの蕃風の記録はない。しかし、趙与シ
(宝慶1225~28の進士)の伝えるところによれば、宋初、外戚の
王継勲は洛陽の長だった折、民家の子女を腰元に使い、少しでも
気に入らぬと殺して食べちゃった。
骨は瓶に貯めておき、溜まると野外に捨てていた。太宗即位と共に
彼を捕え、洛陽の市中で斬に処した。
与シと近いころにも、欽州(広西)の林千之が食人の罪で籍を削られ、
海南島に流されたという。
また『帰潜志』によれば、金末、近衛の軍人上りの牙虎帯は、部将と
その妻達をあつめて宴会を張ったことがある。
その折、一将の妻女が豚肉を食べない(回教徒だろう)と言ったので、
為に代わりの肉饅頭をすすめた。彼女が大変美味だと礼を述べたところ、
笑って「豚は嫌いだが、人肉は御気に召したようだね」と答え、お陰で
彼女は大いに吐き、数日寝こんだとある。
なお、こんな暴状があるにかかわらず、朝廷は彼には歯が立たず、
結局当り前に畳の上で病死をしている。
舞台は北宋末だが、元代に成立した小説『水滸伝』にも、食人のケースは
幾つか出ている。
江州武為軍で怨敵黄文ヘイを捕えた宋江以下が、生きながら解剖して
焼いて食べたのは、恨みをはらす為だから、まだしもだ(四十一回)。
孟州十字坡の茶店で、母夜叉孫二娘が菜園子張青ともども旅人を麻酔に
かけ、肥った男は黄牛、痩せたのは水牛肉として売っていたのは、
単なる商売用なのだから、恐れ入る(二十七回)。」
p324(清代)「このついでに、また食人について一寸触れておく。
と言っても、蕃族が食べたのではない、蕃族が食べられたのである。
金川の大叛乱の折、籠城した漢人達が兵粮が尽きたので、ついに捕えた
蕃族をたべた。たべた部位による味を(後日の参考のために)くわしく書いて
中央に報告したが、中でも陰茎はフカフカして一番不味だったとか。
北京に実報という小新聞があった。昔の東京の万朝報みたいに市井の
瑣事を書いて呉れるので、私の北京学学習の好資料だったが、その中に
囲みもので、主に清末民初の逸聞が連載されていた。
これはその中の一記事だ。」(引用おわり)。
日本の学術的著作の通弊で、典拠を明示した脚注が欠けているのが
つくづく惜しまれます。
余談ですが、文科省やマスコミの用字制限のみならず、文字変換の
不自由には本当に苛つきます。今回の引用でも「奴婢」が変換できず、
「はしため」といれても無反応でした。う~ハラが立つ。
(からかろ、熊本)
メルマ!メルマガ「宮崎正弘の国際ニュース」のコメントより。
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中国では昔から、うらみのためとか、趣味でとか、迷信や風説のためとか、
健康に良いという医者の勧めからとか、戦争の時にとか、
いろんな理由で食人が行われていたのだなあ。
イタリアの偉いさんが、中国では毛沢東の時代、赤ん坊を煮て肥料にしていた
と言ったそうだが、そんなことがあっても、別に不思議ではない。
中国では、著者が北京にいたころまで妊婦さんが年老いた自分の親や、
ご主人の親に、「股を割いて」いたらしい。赤ちゃんが産まれたら料理して
食べさせていたという事かな。
最近でも(2006年4月2日)誰かが子供を食べたようだ。↓
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3日午前10時(日本時間午前11時)ごろ、甘粛省・蘭州(らんしゅう)市城関区にあるゴミ集積場で児童の遺体が発見された。白色のビニール袋に入れられていたもので、調理された痕跡があるという。警察では殺人などの疑いで捜査を開始した。
遺体が発見されたのは、市内の一部から生活ゴミや医療ゴミが運び込まれるゴミ集積所。数十人の作業員が利用可能な廃品を選別していたところ、ビニール袋から児童のものと見られる両腕と肉塊、骨を見つけた。さらに、袋の中からは生姜などの調味料も発見された。
警察では、遺体に加熱調理された痕跡があるとして、殺人や死体損壊などの疑いで捜査を開始した。遺体で発見された児童の年齢は5-8歳とされているが、目下のところ性別の判定はできていないという。
遺体の入った袋は現地時間の2日21時から23時の間に、他の生活ゴミと一緒にトラックで運ばれてきた可能性が高いとされている。そのため、警察ではトラックにゴミが積み込まれた可能性がある地域をローラー作戦方式で捜査することにした。(編集担当:如月隼人)