満州からの引揚者のその後
戦争の時に、満州で生活していた一般人や農民たちは、一様に
全ての財産を満州に残して、命からがら逃げ帰ってきた者がほとんどだ。
農民ならば、親戚を頼って農業に戻れただろうが、
事業をしていた者たちは、今まで築き上げてきたもの全てが
ゼロになったので、日本に帰っても住むところが無い。
当然、親戚を頼ることになる。わたしのおじいさんの家族も
満州からの引揚者だ。おじいさんは終戦まで満州にいた。
ロシアの兵隊に捕まったら、シベリア送りになったそうだが、
何とか日本に逃げ帰ることができたのだそうだ。おじいさんが
日本に変えるまで、家族はバラバラに分かれて親戚の家に住むことに
なった。アメリカ軍の空爆で家が焼かれ、たくさんの親を
亡くした子供ができたのそうだが、彼らも親戚をたらいまわしにされて、
辛い目にあったようだ。片親でもいた子供はまだマシな方で
戦争で孤児になった子供達は戦後、もっと悲惨な目にあったのだそうだ。
マンガにもなった小説「蛍の墓」でもそんなことが書かれてある。あれは
作者の実話なのだそうだ。幼い兄弟が親戚の家を飛び出して、山の中で
暮らすことになるのが、結局、妹が栄養失調で死んでしまう。
子供の時に読んだ時は、ひたすら兄弟が可愛そうで泣いた。
でも、大人になって、兄弟を預かった親戚の目で同じ本を読むと、
お兄ちゃんが妹を救えなかったのは、やっぱり子供で正しい判断が
できなかったからなのだった。親戚の家にいればその家の子供ほどは
食べさせてもらえず、いつもひもじくてプライドも傷つけられる生活
だったに違いないが、妹は死にはしなかったのかもしれない。
親戚にいじわるをされても、母親の形見の指輪を騙しとられ、それで
食料の調達をしておきながら、兄弟にご飯を食べさせなかった親戚は
ひどい人々だが、当時はそんな時代だったのだ。親戚の子供を
騙してでも食料を手に入れ、自分の子供だけに与えるような時代だった
のだ。所詮、親戚の子供はジャマモノでしかなかったのだ。作者は当時
子供だったので、子供として行動し、大人達が彼らを省みて救い出して
やれなかったことが問題だ。当時は誰も彼も自分たちのことで精一杯で、
親戚の子供を殺すことになっても平気な、恐ろしい時代だったのだ。
敗戦後の日本は、どの家でも食料がない状況で、戦争孤児が、誰にも
相手にされずに飢え死にするのはよくあったそうだ。戦後に飢えで死んだ
日本人の数は、戦争時の時に死んだ人の数を超えているという。
わたしの母親の家でも、母親の父であるわたしのおじいさん以外は
いち早く満州から日本に帰国したものの、乳飲み子を抱えるわたしの
おばあさんは病弱で親戚を頼るしかなかった。伯母は当時の話を
したがらない。わたしのおじいさんは、満州から帰ってからも過去の
栄光が忘れられず、人の下で働くのは嫌だと言って、いろいろな事業に
手を出したものの何一つうまくいかなかった。家族は大黒柱を失ったまま
親戚だけを頼りに生きるしかなかった。おじいさんは、事業を成功させ
ようと駆けずり回っていたので、家には全くいなかった。
おじいさんがプライドを捨てて、普通の会社で仕事を始めたのは、
かなり後になってからのことだ。伯母を預かることになった親戚は、
伯母を早々に寄宿舎付きの看護学校に入れた。
伯母の意向など全く関係なく、親戚の手配で伯母は看護婦になった。
そして伯母は、それからずっと彼女の給料で家族を養うことになった。
おばあさんは体を壊してずっと寝たきりだったので、わたしの母親は、
その伯母に育てられたようなものらしい。わたしが子供の時におばあさんが
天国に召された(亡くなった。)時も、その知らせを受けた時に、
「わあっ、、、!」と、床につっぷして泣いていたが、しばらくして起き上がり
「まあいいわ。わたしには姉さまがいるから。」なんてつぶやいていた。
年が離れているので、お姉さんがお母さんみたいなものだったのだ。
満州からの引揚者のその後なんて、みんな似たようなものだったのだと
思う。彼らの子供達は、大変な目をして日本で新しい生活をゼロから
始めたのだった。わたしの伯父たちは自分達が子供の頃に父親が
側にいたためしがなく、世話をしてもらった記憶が無いので今でも父親を
うらんでいるようだ。食事も毎日あわ、ひえなどの雑穀で、漁師に海辺で
売ってもらったいわしばかり食べていたそうだ。
おやつは「おからの炊いたの」で、学校にも弁当を持って行けず、
昼休みに隠れておからを食べていたこともあったそうだ。
今では、雑穀やいわしやおからは健康食品だが、当時の伯父達に
とっては、まともなご飯が食べられなかった事は、相当に辛かったようだ。
幸い栄養だけはきちんと摂れていた様で、伯父達も母親も何とか健康な
大人になれたそうだが、わたしの父親によると、母親は知り合った時は
栄養失調でガリガリだったそうだ。
伯父達は正月に伯母の家に集まるが、その時にわたしもおじゃますると
喜んでくれる。当時の話もしてくれるので、みんなも話をつなぐと、
子供の頃は大変だったということである。それでも、神様のお恵みで
栄養は十分で、今で言うスローフードで育ったおかげで病気もせず
健康なのだと言っている。わたしの母親だけがみんなより早くに天に
召された(亡くなった。)のだが、わたしのおばあさんに似て、もともと
体も弱かったのだろう。母親が亡くなってから、教会の昇天式で
伯母と急に仲良くなった。年は取っているが気持ちが若くて、明るい人だと
知った。母親が亡くなって寂しくなったが、伯母と仲良くなれたのは
良かった。伯母はわたしのおばあさんのことを弱くても強い母であったと
教えてくれた。毎日、聖書を読み、神様と祈る時間を取るクリスチャンで
あったそうだ。わたしの伯母も、彼女の信仰を受け継ぐクリスチャンである。