満州えれじい
わたしのおじいさんは、中国の旧満州で事業をして
一応の成功を収めていた人だった。上海にも出張でよく出かけていた。
上海には友達もたくさんいたらしく、映画インディー・ジョーンズに
出てくるようなゴージャスな租界の高級クラブにも連れて行ってもらった
ことがあるそうだ。上海には上品なお嬢さんがたくさんいて、素晴らしい街
だったそうだ。おじいさんは、国際都市であった当時の上海の繁栄を実際に
経験したひとりだ。
おばあさんは、満州で会社と家の切り盛りを任されていたそうだが、
常に公平な人で、誰に対しても同じ扱いをし、いつも静かで大声を出さず、
中国人の使用人にも、日本人の使用人と同じように扱い、同じ人間として
仕事の内容に見合った額の給料を渡し、家族と同じご飯を食べさせて
いたそうだ。当時の日本人には白米の配給があったのだが、満州人は
白米をマズイと言って怒っていたそうだ。
満州人は元々ひえ、あわが主食だったので、日本人がよかれと思って
白米を食べさせても気に入らなかったのだそうだ。
それでも、おばあさんは特別に家族用のご飯と従業員用のご飯を
分けて炊くのが差別のようで嫌だったので、満州人が白米は
マズイと怒っても同じ物を食べさせたのだそうだ。白米が無くなると
家族も従業員もあわ、ひえ入りのご飯を同じテーブルで食べた。
おばあちゃんはクリスチャンで、いつも神さまに祈っていたそうだ。
しっかりした日本人従業員もいるにはいたが、女ひとりで満州で、
留守を守り、子供を4人も育てるのは大変なことだったと思う。
会社と家では、満州人は日本人と同じ扱いを受けて、遇されていた
のだが、ひとりの満州人は会社の金と真新しいふとん一式と
リヤカーを盗んで出ていってしまった。
何ヶ月たって、彼はボロボロになって帰ってきて、また雇って欲しいと
おばあさんに泣いて頼みこんだのだそうだ。結局盗んだ金は使い果たし
どこにも再就職できなかったらしい。おばあさんは、彼を許し、再度
雇ってあげたのだそうだ。その時におばあさんは彼にイエス・キリストの
話しをしたそうだが、彼が神さまを信じたかどうかは分からないそうだ。
おじいさんは、戦争が厳しい状況になってきたことにいち早く気が付き、
一般の日本人よりも先に家族を日本に帰らせた。おばあさんは4人の
子供を抱えて日本に帰る船に乗ることになった。
船に乗る時には、大勢の人々がどんどん後ろから押してきて
大変な状況だったそうだ。まだ、日本が戦争に負けそうだというウワサが
出始めた時であったが、その当時でも船に乗り込むときはそんな状況
だったので、その後で本当にロシアの兵隊の殺戮からのがれて
東北部から集まって来た人々はもっと悲惨な様子だったに違いない。
わたしの母親は当時はまだ赤ちゃんで、おばあさんに抱かれていた。
おばあさんは赤ちゃんと子供ひとりを連れ、わたしの叔母である長女が
幼いながらも弟2人を両手に引き連れて自分の母親と船に乗り込んだ。
その時、姉の目の前で、突然母親が誰かに背中を突かれた。
赤ちゃんが母親の手を離れ、足下に沈んでいって見えなくなった。
人々はかまわず後ろから押してくる。
そのままでは赤ちゃんは人々に踏み潰されてしまう。
叔母が、その時の話しをわたしにしてくれたのだが、伯母によると、
普段おとなしく大声を一度も出したことがない上品な母親だったのに、
今までに伯母が聞いたことも無いような大声で、
「どいてくださーい!!どいてくださーい!!子供がつぶれるー!!
どいてくださーい!!子供がつぶれるー!!」と叫んだのだそうだ。
動物が吠えるような必死の叫び声に驚いて、
ぐいぐい後ろから押していた群衆も一瞬押すのを止めた。
その隙に、母親は赤ちゃんを助け出すことができたのだそうだ。
もしも、あの時、母親が大声を上げていなかったら、赤ちゃんは確実に
群衆に踏み潰されていただろうし、当然わたしもこの世に生まれ出る
ことはなかったのだそうだ。
おじいさんは、ロシア兵が来るまで満州に踏みとどまり、終戦後に日本に
帰ってきたそうだ。日本人の女の人は、髪を切りボウズ頭にして男の服を
着て変装していたそうだ。そうしないと女とみればロシア兵は捕まえて
強姦していたのだ。ロシア兵は、時計が何かも知らず両腕に何個も
はめていて恐ろしかったそうだ。
戦争が終わって、満州で築いた地位も名誉も財産も全て失い、
ボロボロになって帰ったおじいさんは、完全に自信を失っており、
しばらく日本では人が変わったように自堕落になっていたそうだ。
それがきっかけで、おじいさんもイエス・キリストを信じるようになった。
夫婦二人ともクリスチャンになれたのは、よかったと思う。
なんでもおじいさんは、有名な牧師の息子だったのだそうだ。
おばあさんには、結婚してほしいと親に頼みに来るお金持ちの男性が
何人もいたそうだが、牧師の息子と結婚したいと思っておじいさんに
決めたそうだ。ところが当時のおじいさんには愛はあったが信仰は無かった。
聖書に出てくる放蕩息子のような人生だったが、最後は叔母に看取られた。
「親孝行な娘やなあ。」と喜んでいたそうだ。
わたしが、病院にお見舞いに行った時は、「おじいちゃんの人生は辛い
ことがいっぱいやったが、感謝やな。神さまに愛されているんやから。」と
言っていた。わたしの母親には満州の思い出など無いが、伯母がたまに、
当時の事を教えてくれる。伯母にも満州ではそんなによい思い出は
無いそうだ。満州のイメージは、学校と家の往復と、近所の石炭置き場と
夕焼けぐらいが思い出なのだそうだ。もう少し、日本に帰るのが
遅れていれば、母親と子供4人がひとりも欠けずに無事に帰ることは
無理だっただろうと言っていた。