正樹の結婚
日元正樹の住む村は、過疎が始まりかけたのどかな農村だった。
人々は、真面目で良く働き、人口は少なくても農作物の出来高は良く
どの家にも貯蓄があって、ちょっとした小金持ちが多く、家を改築したり
車を買い換えたり、庭を日本庭園風に整えている家なども多かった。
正樹の村から峠をひとつ越えた向うには、隣村の那加ヶ村があり、正樹の
住む日賀村とは、昔からの因縁で何かと仲が悪く、街で出会っても
お互いに見ないフリをする程度の関係を保っていた。
何でも、正樹の祖父の時代に、土地の事などが原因で殺傷騒ぎが
起こったそうだ。どちらが先に手を出したのか当時の警察も、
事件の解明ができずにうやむやに終わったのであるが、結果的には
正樹の祖父が、逮捕され死刑になったのだった。
正樹の住む日賀村では、当時の事件を知る年寄りたちがまだ元気な
時代には、村人たちはほぼ全員が正樹の祖父の味方であった。
村に住む若い者が次々と都会の大学に行き、そのまま都会から
帰らなくなるにつれて、昔の事件も次第に忘れられ、今では正樹の親の
世代も、正樹の世代である40代の壮年たちも、その事件は
「思い出したくない過去」のひとつとして、
誰も口にしなくなったのだった。当然、隣の村の那加ヶ村にも、
昔あったことなど知らない人々が増えてきた。二つの村が仲良く助け合う
ことは良いことだと、正樹もなんとなく感じていたし、祖父が昔起こした事件
など、特に気にもしていなかった。隣村の中村華子が、積極的に正樹に
ラブコールを送ってきたときも、彼女が自分の祖父に殺されたという家の出で
あることは、あまり気にならなかったのである。もっともそれを知ったのは
二人で大学近くのアパートを借りて住み始め、結婚を決めた後だった。
彼女の口から知らされたときは、正樹はそれが結婚の障害になる
問題だとは思わなかった。
かえって、そのことで、自分と彼女が結ばれる事が、何か特別な縁で
生前から決まっていたのではないかと考えて、不思議な気持ちに
なったものだった。
彼女の村は、正樹の村よりも土地は広かったが、水はけも悪く、
農協も一部の村の有力者たちによる汚職が頻繁に行われていたようで
うまく機能したためしがなかった。
作物の出来も毎年かんばしくなく、当然の結果、那加ヶ村は慢性的に
赤字続きで、那加ヶ村全体が貧しかった。正樹は、華子の素朴さと、
親しみやすい性格と明るい笑顔に心を惹かれたのだった。
たしかに彼女には街の女の子にない、野性的な魅力があった。
彼女の家は、赤字続きでこのままいけば、田畑を売りはらって村を出るか、
農協を支配している有力者の息子の嫁になるしか選択の余地がなかった
のだとは、結婚してしばらくしてから、彼女の友人に聞いた話だ。
正樹は、彼女の実家にも良く出かけ、彼女の実家の借金を肩代わりし、
必要な金を貸し出して、倒れかけていた家も建て直した。畑や田んぼには
灌漑用水を引き、必要な農業機器も貸し出し、優秀な種籾の世話まで行った。
その成果があって、20年たった今では、妻の実家は村でも有数の資産家に
数えられるようになり、当然村での地位も、資産と共にあがって行った。
その華子の実家が、最近急に様子がおかしくなったのだ。
正樹の日賀村と隣村の那加ヶ村の境付近にある泉は、もともと正樹家の
ものであった。それなのに、急に昔の境界線は間違いで、その辺一帯は
当家のものだと言い出したのだ。
いつのまにか泉に囲いをし、水を隣村に通すパイプを設置してしまったのだ。
再三、話し合いの場を持つよう抗議したが、正樹が祖父の眠る墓参りを
することが、当家の先祖の対する侮辱に当たるなどと電話で怒鳴りつけ、
泉の権利に関する話合いに応じようとしない。
先日、やっと妻の実家の許しが降りて、話し合いのために妻の実家に出向いた
正樹だったが、結果は燦々たるものだった。
まず、泉の共同利用は許さないの一点張り。逆に、正樹の庭の泉なら
共同利用しても良いと言うなど、らちがあかない。
おまけに「D街の知り合いも、お前が犯罪者の墓に参るのが馬鹿げとる、
不道徳なヤツやと、あきれとったぞ!!A街のわしの友達もお前の
じいさんのした事を、忘れんとゆうとったぞ!M街の人も、お前の
じいさんは犯罪者やと、言うとったぞ!!」と、顔をゆがめて怒鳴り散らす
しまつだ。話にならない。
泉の権利の話をしに行ったのに、逆に恫喝されるとは。
いつも冷静な正樹もさすがに気分が悪くなり、家に帰ってから妻に八つ当たり
してしまった。
妻の華子に「最近のお前の実家はどうなっているんだ?ちょっと前までは
俺にいろいろと良くしてもらって喜んでいたのに、、、。」と言うと、華子は
上目使いにぎょろりと正樹を睨んで、
「あんた、わたしの実家の畑の収穫物を欲しいからわたしと結婚したんやろ?
自分の利益のためにやった事は、親切でもなんでもないんやし。」と、
わけのわからないことを言う。
「昔の話は、忘れましょうよ。」と、20年前に言ったのは、華子の方だったのだ。
正樹が、あの泉を諦めたとしても、それだけでは済むはずがない。
妻の実家が、正樹の地所を狙っているのは明白だ。
最近急に不穏な動きを始めたからだ。この間から、妻の実家の者がちょろちょろ
正樹の家の山に入っているのは知っている。
正樹の家の庭にも時々現れて、技術者を連れて、なにやら計っているし、
この間は、家のベランダの隙間から覗いているのだ。こちらが不快感をあらわに
して、不法侵入者にご辞退願うと、大声で「犯罪者の墓参りしやがって!!」
などと捨て台詞を残して去っていく。
正樹には、年老いた両親と子供達がいるが、
祖父の友人らは彼らの時代に起こった事件の真相を話しに家に来てくれる
ようになった。どうやら正樹の親や正樹がうやむやにしてきた過去を、
妻の実家は持ち出して、難癖を付けてきているようだ。なんでも祖父の
時代から、問題の泉がある場所は隣村が欲しがっていた場所なのだそうだ。
どうやら、今まで20年間、黙っていたのは時期をうかがっていただけの
ようだ。
正樹の娘は恐がって、家を出て街に下宿すると言うし、両親らは
なんとか相手は隣の村の人だし、お嫁さんの実家なので、仲良くする道をさ
ぐれと言う。息子は、怒って泉を取り返えそうよ!と、単純に憤慨しているが、
事はそんなに簡単なことではない。正樹は息子には暴力沙汰になるような
事を一切禁止している。息子がこっそり暴走族に所属していることは
知っていたが、彼らの力を借りたとしても泉は取り返せない。
暴走族など子供の遊びに過ぎない。相手はプロのヤクザ組織なのだ。
妻の実家は泉の側に掘っ立て小屋を作り、村のヤクザを住まわせている。
名前は村の青年団だか、やることはヤクザと変わらない。
村の有力者の手足となって、貧しい農民をワナにかけ、不当に村から
追い出しているというウワサが途絶えない。
村全体が、一部の金持ちに牛耳られ、彼らに搾取されている。
青年団はまさに、権力者に給料をあてがわれており
私設暴力団と化している。彼らの目的は、泉なんかではない。
泉は実質的にすでに乗っ取られている。いつのまに調べたのか
水質がすこぶる良いので村おこしのために、今流行のペットボトル
詰めの商品にして、大々的に売り出すという話だ。
彼らは正樹の庭の泉にも興味を示し、共同開発したいと言ってきた。
とんでもない話だ。
正樹の家そのものが彼らに乗っ取られようとしているのだと正樹は思う。
裁判所に訴えて、泉の権利を主張しないのならば、いずれ庭の泉も
盗られることになるのは間違いないだろう。
正樹は、隣で眠る妻の姿を見ながら、妻の20年前の無邪気な笑顔を
思い出した。ふと、俺はこの女に利用されるために生かされているの
では無いかという疑いの心が生まれた。
「あんたとあたしが仲良くすれば、あんたの村とあたしの村が昔の
事を忘れて友好な関係になるんよ。
あたしらが、友好の先がけになるんよ。あんたのおじいさんの事は
昔のことやし。あたしは、気にしてないから。」
家の反対を恐れて二人で婚姻届けを出した後で、初めて彼女の口から
彼女の実家の者がその昔、正樹の祖父に殺されたのという過去を
知らされた時、正樹は「申し訳ない!」と、彼女に土下座したものだ。
そのとき彼女は、頬をほんのりもも色に染めて、優しい言葉で
正樹を励ましてくれたのだった。
正樹が彼女の実家に今まで尽くしてきたのは、昔、祖父が犯した罪
を申し訳ないと感じる償いの気持ちもあったからだ。
だからこそ、献身的に自分の家の貯蓄を、お貸ししてきたのだ。
正樹は、あの時の華子の初々しい姿を思い出した。あの時の正樹の
気持ちにウソは無い。しかし、過去の清算など、できるものではない。
彼らが、もういいよと言う訳がない。
最初から、正樹は甘かったのだ。
最近になって知った、祖父と妻の実家のいざこざとは、
よくよく話を聴いてみれば、相手が先に手を出してきているなどの
複雑な事情があったようで、一概に祖父ばかりも責められないようだ。
正樹が、一生懸命妻の実家の建て直しを手伝っている間は、彼らも
喜んでくれていたのだ。妻は、過去を忘れたと言っていた。
あの時の、妻の愛情はウソだったのか?
正樹は、彼女がある目的を持って彼に近づいたのだという疑いを、
心から払いきれず苦しんだ。
20年間の愛情が、全て演技であったなどとは、とうてい信じられない。
彼女の寝顔を見つめていると、正樹の知らない別の女がそこにいる
という錯覚に陥って、正樹はしばらく眠れないでいた。
まだ生かされている。離婚はしていない。可愛い子供もいる。
まだ大丈夫だ、、、。
自分の立場が、いつのまにか小さくなっている事を感じて息苦しくなった。
「どうしたん?眠れないん?」と、華子が寝ぼけ声で聞いた。
正樹が何も答えないでいると、彼女は
「あんた、考えすぎなんよ~。早死にするよ。」と言って、くるりと背中を
向け、そのまま規則正しい寝息を立てだした。
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