「排他主義」っていう題が付いた記事 | 日本のお姉さん

「排他主義」っていう題が付いた記事

中華的生活「多少銭」というブログがある。初めに

「中国生活2年、中国人に囲まれて女一人で会社運営!
おもしろ、とんでも大陸中国情報をお楽しみ下さい。
」と、

書かれている。たくさんの人に読んでもらいたい。↓

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「人類皆平等、何にも神様を見出す大らか宗教国日本よりも、
黒や黄色を下に見て、一神教、他宗教を邪教とさえ
する欧米(白人社会)にこそ、これはあてはまる
だろう。」←ここは、わたしはクリスチャンなので、

気に入らないのですが、

ブログを書く人の自由なので、そのまま載せます。
ぜひ、ここを覗いて、コメントも読んでくださいね。

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気に入ったので、紹介します。↓

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先日「意識を変える時代2」 というエントリー
書いた。

概要をまとめると、

昨今の日本の外国人犯罪、
また不法滞在上位国に対するビザ免除に対して、

・外国人という立場になったら、現地に溶け込む
 努力は本人自身がすることである。
・外国人(異質なもの)に対して現地人が警戒するのは当然
(それを差別とはいわない)。
・外国人の努力が足りない、馴染もうとしてない、
 地域社会に害をなすと判断したら排除するのも当然。
・既に害を為している(国の)人間に対して厳しい
 制限を設けるべき


となるかと思う。



これに対して

排他主義だ

といったお叱りのメールを頂いた。


あらかじめ断っておくが、この方の文章からは
「日本を良くしたい」というココロが感じられた。

私も当然、日本が好きだから書いている。

手段や方法論が違うだけで、同じ仲間だろうとは
感じる(勝手に分類して失礼なのだが)。

色々なメールを頂くが、全て有り難く読ませて
頂いている(遅れてもお返事はかえしますので、
お待ちいただきたく思います)。

私の意見は絶対でも唯一でもないことは言うまでも無いが、
それでも大勢が読むブログを運営している以上、
それなりの説明責任はあるかと思う。

よって、僭越ながら私の意見を今一度
書いてみたい。



さて、排他主義ということなのだが、、、

何か違和感を感じる。


そもそも、ある国が外国人(多民族国家ならば
ある一定の民族に対して)を排除するにあたっては
(国策としてのみならず、民間意識としても)
いくつかパターン があるのではないだろうか。

私が考えうるのは、下の3つ。

1)人種的優越感・選民意識から
2)宗教的・思想的・民族的対立から
3)国防・自衛策(経済もこの一つ)から


である。



これを前提に考えてみる。

まず、1)の選民意識。


これほど日本人に適しない意識はなかろう。

戦争に負けて、日本人はダメだ、反省しなければならない
と言った逆の意識はあっても、日本人は世界一優秀で
他国民(他民族)は劣る、という意識も教育 もない。
謙虚に世界の人々の良いと思う部分を吸収し学ぶ姿勢
を持っているのが、日本人の特徴であろう。

これがマッチするとしたら、、、、

人類皆平等、何にも神様を見出す大らか宗教国日本よりも、
黒や黄色を下に見て、一神教、他宗教を邪教とさえ
する欧米(白人社会)にこそ、これはあてはまる
だろう。

(もちろん、最近反作用として、余りにも自虐的過ぎる
ことから「日本人は自信を持て、優秀だぞ」という意識は
ある)


では、2)はどうか。

言うまでもなく、日本は何でもあり宗教国家である
(語弊があるが)。
宗教的に対立する民族は無い(成立しない)と言っていいし、
特定の宗教を「非人道的な手段で」弾圧している
こともない(信教の自由を認めている)。

また、思想的に対立する(?)、例えば反日政策を
取っている国の民族も、正当なルートで入国する
ことを許可している。

とても排除している、と言える状況では
ないと思う。



となれば、最後の3)

これが最も説明がつくだろう。



確かに、今の日本人は多くが中国韓国 (北朝鮮)に
対して「嫌悪」を抱いていると思う。

無条件に排除する(したい)と考える人も、
彼らに侮蔑の言葉を投げかけたりする人も、
いないとは言えない状況だかも知れない
(ネットでは過激な言葉が行きかうが、街中で
それら対象の人に対してそういった言葉を投げかける
過激な人はほとんどいないだろうが)


しかしそもそも、現代日本人は他民族を(排除)する
ような教育を受けてはいない(少なくとも3○才の
平均的日本人の私はそんな覚えはない。むしろ皆と
仲良くしましょうという教育を受けた)。

海外旅行 に毎年何千万人(のべ)
も出かけ、世界中を見てまわること、異文化
触れることをココロから楽しむ民族だ。

その何でもあり宗教国家でお人よし民族が、
百歩譲って「排他」と呼べる感情を
特定の国(の民)に持っているとしたら、それは

防衛(自衛)本能から発生した

ものとしか、考えられないのではなかろうか。

今そこにある危機として、少なくない人たちが実感
しているからこそ、益よりも害を感じるパーセンテージが
大きいからこそ、発生した防衛意識では
ないのだろうか?



さて、最初の話に戻るが、排他主義。

では、
この(百歩譲って)排他が
「防衛(自衛)策から発したもの」
であっても、

してはならないもの

なのであろうか?

前述の1~3の条件(私が勝手に挙げたものだが)。
私としては、1と2から発した排他ならば
それは、してはならない種類のものであると
言っていいかと思う。

しかし3だけは別ではないか。

基本的な生存権利を侵害されている場合に、
防衛(自衛)本能が働き、危険分子の排除と
なる。

特に日本人はお人よしで、よほどのことがなければ
我慢するし、外国人には遠慮さえする。

その日本人が外国人に対して排他的な言葉や態度をとる
となれば、その「よほどのこと」だと考えるのが
普通の感覚ではなかろうか。

また、いうなればこれは「政府が不甲斐ない」
「行政を信用できない」からこその、民間防衛意識
ではないのだろうか。



排他主義。

これを言うならば、今日本人が嫌悪を抱いていると
言われる隣国の方がよほどそれに当てはまる。

日本で日本人が中国人を襲うような事件が起こっている
だろうか?大使館に石を投げ込むような、国旗を焼くような
事件が起こっているだろうか?

昨今のような状況になっても、日本人はメールや電話、
民主主義的な抗議をとるだけではないか?

中国こそ、華夷主義(中国人が最も優秀で
外国人は獣である)というような過激な「排他主義」をとって
いる国だ。日本相手には何をしても許されるような
土壌 さえある国。

彼らの排他主義、これと日本の排他主義と言われる
(ならば)ものは明らかに違う。
(中国を韓国に置き換えても当てはまる)





排他主義はけしからん。

それは(基本は)その通りだ。

しかし、
その、防衛(自衛)策さえけしからんと言うならば
それはどこかで騒いでいる「無防備都市宣言」と同じ、

「生存権の放棄」とイコールではないのか?


もちろん、この排他(自衛)主義が過ぎることは心配だ。

過剰な民族主義になってしまい、1や2の理由での
排他主義につながらないとは言えない(一部そういった
感情が現在も無いとは言わない)。

しかし、それも、
上に述べた理由から発生した排他主義とするならば

相手の出方次第、

つまり過剰な民族主義、排他主義となるとしたら

まさに危機が迫っている(戦わねばならない)

時であろう、と感じる。

これが、歴史から鑑みても日本人の傾向ではなかろうか。




もちろん、私は差別や排他を推進している
わけではない。

心地よい距離で持ちつもたれつが、民間レベル
でももっと広まっていけばいいと願っている。

私は中国が好きだし、国同士が仲良くして、
民間レベルでも意識の高い中国人がたくさん
日本に住むことを期待している。

しかし、友好理想論で語るばかりの「痴呆症」
はもう止めるべきではないのか。防衛本能からくる
差別(排他)は安全に生きる為の当たり前の権利
ではないのか?

外国人差別に言及する前に、日本人の生命の安全
これが最優先事項ではないのか?

心配しなくても、
きちんとした基準で審査し入国、そして日本の
ルール に則って馴染む外国人を日本人は排除
するようなことは(ほとんどが)しないだろうと思う。

ようは、取捨選択と選別が重要で、
日本に入る人間を見極めるべきなのだが、今は
それがなし崩しになっている。

だからこそ、仕方なく「外国人には警戒しろ」と書いた。




まとめると、、、

今、日本で排他と考えられるものが起こっていると
したら、それは防衛本能から発生したものであり、
安全に生きるための権利である、よってけしからん
といった種類のものではなかろう。

また、この排他主義も危機意識から発生している以上は
相手次第で変わるものであり、既にボールは相手に
投げられているものではなかろうか、、、


ということになる。













今回は、私がもし日本で暮らす一庶民だったら、という
視点で書いています。これがビジネス の立場、国家として
の立場だったら当然変わってくると思いますがね