イエス・キリストの家系 | 日本のお姉さん

イエス・キリストの家系

聖書のマタイによる福音書を開くと、イエス・キリストの系図が


ずらっと書かれてあるのに先ず驚く。イスラエル人は系図を


とても大切にする。日本人が家系図を大事にするよりもずっと


大事にする。イスラエルは12部族いたが、今は2部族しか残って


いない。でも世界のどこかに10部族が細々と生き残っているなずだ。


自分たちがイスラエルの子孫だと知らずに、、、。意外に日本かも?


それは冗談として、イスラエル人にはイエス・キリストの系図は、


非常に興味のある事で、聖書の預言通りでなければ、


神さまが天から遣わしたメシヤ(救い主)だとは、とうてい信じがたい


事なのだ。それで、系図を書くことが必要だとマタイは思ったと


いうわけだ。


聖書と逆に書いてみると、マリヤの夫、ヨセフはバビロン移住の後に


生まれたエコニヤの子孫で、ヨシヤやヒゼキヤという王様の子孫だ。


そして、王様たちはソロモン王の子孫で、ソロモン王はダビデ王の


子供だ。ダビデ王は、ユダ族の家長の


ユダの子で、ユダはヤコブの子で、ヤコブはイサクの子。


イサクはアブラハムの子だ。アブラハムにはイシマエルという


女奴隷との息子がいる。アブラハムの妻のサライ(のちにサラと


改名する。アブラハムは後にイスラエルと改名する。)が、


神さまの約束を待てずに、自分に子供ができないことを苦に


して、自分の身の回りの世話をする女奴隷ハガルを


与えたのだが、ハガルとイシマエルがすごく好戦的な性格で


サラと、イサクをいじめたので、砂漠に追い出された。


それでも神さまは彼らも、片手に弓を持つ大きな民族にすると


約束されたのだ。サラの不信仰が、今でもイスラエル人の


悩みの種となっているのだ。(聖書にそう書かれている。


ちなみにコーランでは、イサクはいないことになっていて、


アブラハムの子供はイシマエルだけということに


なっている。イスラムさん。わたしを殺しにこないでね。聖書に


そう書いてあるんだから。コーランはアラブ人の気持ちに添って


重要な部分をカットしています。イザヤ書のイエス・キリストの


罪の裁きを負って、人類の身代わりに大勢の目の前で神に


裁かれて苦しみ、その苦しみを見て神さまは満足するという


53章の預言もきれいにカットされています。イエスはただの


人という扱いで、イサという名前で、十字架から途中で降りた


ことになっている。)


アブラハムは、テラという城壁があり、上下水道完備の大都市に


住んでいたが、神さまが選び出し、今のイスラエルを与え、


空の星ぐらいの大きな民族とすると約束を与えた人だ。


アブラハムは、その頃イスラエルに住んで遊牧をしていたが、


息子のヨセフがエジプトの宰相になったことから、エジプトに


行くことになる。エジプトでは、大切な客人たちであったのに、


ヨセフを知らないエジプト人の時代になると、在留異国人扱いと


なり、人口が増えすぎたイスラエル人はエジプト人にとって、


脅威となる。それで男子が産まれると全員殺され、大人は


奴隷として苦役に尽かされる。その中でエジプトの女王に


ひろわれたモーセが養子となって、成人する。


モーセは、ふとしたことで、エジプト人を殺してしまい、砂漠に


雲隠れする。しかし、神さまに呼び出され、イスラエル人を


連れてエジプトを脱出し、イスラエルに帰る旅をすることになる。


有名な「エクソダス」は「出エジプト記」の事で、


エジプト王は、紅海がまっぷたつに別れてできた道を


イスラエル人が進むのを見て、追いかけて、紅海に入った。


モーセが海を閉じるポーズをするように神さまに命じられ、


腕をおろすと、海が閉じてエジプト王は海のもくずと消えた。


西洋人がこのエジプト王に興味があるのは、聖書通りなのか


知りたかったからだろう。日本人は映画でしか、モーセのことは


知らない。ダビデやソロモンは当時有名な王様で、


ダビデは詩編を、ソロモンは箴言、伝道者の書、雅歌を書いている。


作詞、作曲を多数おこない、聖書の一部となっている。


わたしは、雅歌が大好きだ。どんな曲が付いていたのだろう。


いずれブログで紹介します。


話しを元に戻します。イエス・キリストは、由緒正しい救い主が


現れると預言された家系の子供。マリヤもソロモンの子孫です。


神さまが人間を救うために、誰かに罪を背負わせて裁くためには、


先ず、罪のない方が、死ねる体を持たなければならない。


罪の無い人間などいないので、神が人間にならねばならなかった。


神の側のひとり子(そういう関係の神)の神が人間になる


必要があった。


「ありんこ」を救うために「ありんこ」になって、いきなり「あり」


社会に入っても、「あり」はわかってくれない。


いろいろ準備が必要だ。


人間が救い主を見分けることができるように、旧約聖書は


多数の預言者たちを通して神さまの啓示によって用意された。


旧約聖書はメシヤ(救い主)を送るという神さまの予告状だ。


預言者が語った救い主は、イエス・キリストだ。救い主とは


誰かと人類に分からせるために、聖書があるのだ。


神さまが言いたいのは、イエス・キリストは神さまの遣わした


ひとり子で、神さまは人の罪を赦すためには、


罪に対する怒りを、罪のない者(神自身のひとり子)に


ぶちまける必要があったのだ。


罪を裁くこと無しに、罪人を死後、天国に迎える方法は無い。


イエス・キリストの犠牲による以外に神さまとしては無い。



今夜はクリスマス・イブ。クリスマスは明日。


厳密に言えば、2006年プラス3年の4月か5月の夜。


特殊な星が出た日。ローマの皇帝アウグストが人口調査を


行った年で、ベツレヘムで全ての男の赤ちゃんが


ユダヤのヘロデ王に殺された事件のあった年。


厳密に言えばクリスマスは12月25日ではありません。


(多分異教の民の冬至の祭りがいつのまにかクリスマスに


なっちゃったのだと思いますが、その日でいいんじゃない?)