昔の話しですが、知らなかったなあ。 | 日本のお姉さん

昔の話しですが、知らなかったなあ。

在日韓国・朝鮮人(その父祖を含め) と、 強制連行との関係。
朝鮮大学校編「朝鮮に関する研究資料(第四
集)」によ れば、「日本に住んでいる大ひきな部分を占める朝鮮人は太平洋戦
争中に日本の官憲 によって強制徴用され……」とあり、在日韓国・朝鮮人は
口を開けば必ずのよう に、「われわれは日本政府によって強制連行されてき
たものだ」と主張する。だが この表現は正確ではなく、むしろ事実に反する
というべきだと思われる。

1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸
は日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに 渡来したものが
全体の53.7%と、半分以上になる。昭和11~15年はまだ民 間の自由募集
の期間だし、次の16~19年の中でも、国民徴用令による徴集は19年の9月以降
のわずか4ヵ月間であるから、単純に計算すると、この期間に徴用されたもの
は16~19年間の1万4514人の12分の1、つまり1210人(全体 の1.46%)に
すぎないことになる。これに、次項「昭和20年9月1日以前」 の679名(0.8%)
を加えた概算1889人(2.3%)ほどが、真に強制連行の名に値する在日朝鮮人
だということになる。かりに「官あっせん」を強制徴用の概念の中に入れ、
官あっせんが行われていた昭和17年2月~19年8月来日者の推計数を全部加えても、
約1万1300人余(14%)にすぎない。この推定は、昭和16~19年間の月間 来日数
を均等として考えたものであるが、実際には、関釜連絡船の運航は終戦が近 く
なるにつれ次第に困難になりつつあったから、19年後半の来日徴用者も減少し
ているはずである。すなわち、どんなに強制連行の概念を広く解釈しても10%
を大 きく超えることはまずあるまい。

「三国人」の由来
其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏
に對する集團暴行・傷害事件がある <その、集団>

 翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に
乗って居たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、
鐵道員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら
被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、
此車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、
愚図愚図するな! と追ひ立てた <軽井沢、鉄道、この>

 其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのに
そりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢
飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体
にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れた
が、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した <それ、たち
まち>

 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、
如何に不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう <いかに、
これ>

 直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯 況や庶民に於てをや
土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、
強盗事件が多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地
が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋
や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ
 <総理、かくのごとし、いわんや、おいて、ことに、り災>

 其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑に
なって行く状況で、警察如きに何が出來よう 或日、警察は
何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれ
ば、其切り警察は消滅する 七百萬の大軍を擁した彼の帝國陸
海軍ですら、左様にして両總長 両大臣以下、自然廃官になった
 まこと、敗戦はかなしからずや <ある日、もって、万>

 堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」に
なった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した <たまりかねた
、頻発>

 最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手
に負へぬ非常事態に立ち至った <連合国、ついに>

 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當
してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言は
ず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域
に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を
築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へ
て不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其
火器の煌めきを間近に見た <中将、ようやく、きらめき>

 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發
した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」
<発した、あらず>

と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである



「三国人」の不法行為
続発した不法行為
総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は21%
(1949年)、騒擾のごときは83%(1948年)、そ
して密造酒は全密造酒の30%近く(1953,54年)、
ことに覚醒剤の販売量では全量の60~70%を占めるとい
う有様であった。(1953,54年)

公安調査庁坪井豊吉氏は、終戦後間もない頃の在日朝鮮人の
犯罪状況について『法務研究』に次のように書いてある。
本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく
報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる
親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは・・・・・
帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊
(朝連の自衛組織)などの警察類似行為、主食の集団要求
や買出し、彼ら同士の派閥抗争などがみられた・・・・・
またそれらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、
官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、
汽車、電車、バスなどの不法乗車、生産管理、人民裁判な
どであった・・・・・。彼らの不法行為は、敗戦による日
本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらと増長され、
戦後の混乱をいっそう助長するところとなった・・・・・
敗戦の混乱におびえるに日本の一般社会人心は極度に不安
な環境におちいり、一時は全く無警察状態が各方面に現出
された。彼らの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留
外国人の間にまでも、彼らの性格が事大主義で、遵法精神
が薄く、感情的で、極端な凶暴性をもっているとの深い印象
を植え付けたことだけは、まぎれもない事実のようである。
この時代は、特にその初期は右翼と称される民団、建青など
によっても数々の不法行為が敢行されていた・・・・・

騒擾(そうじょう=不平分子が集まり騒いで社会の秩序を
乱すこと 『騒擾罪』 )
民団(在日朝鮮居留民団→大韓民国居留民団)、建青(朝鮮
建設促進青年同盟)

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以上は、2001年のどこかの2chの記事ですが、どこから

取ったかは忘れました。でも、みんなが勉強しないといけ

ない事なので、ここに書いておきます。