聖書の言葉から学ぶ
ヨハネの手紙の第一番目の2章の始めの方を読んでみましょう。
私の子どもたち。
私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないように
なるためです。
もし誰かが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる
方がいます。それは義であるイエス・キリストです。
この方こそ私たちの罪の為の、
ーーー私たちだけでなく、全世界のための、----
なだめの供え物なのです。
もし、私たちが
神の命令を守るなら、それによって
私たちは神を知っていることがわかります。
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、
偽り者であり、
真理はその人の内にありません。
しかし、みことばを守っている者なら、その人の内には確かに
神の愛が全うされているのです。
それによって私たちが神のうちにいることがわかります。
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聖書の「神」は全知全能(ぜんちぜんのう)の神です。
最近、ある野球の監督が記者会見で、「全知全能」と、
「全身全霊」という言葉を組み合わせて、監督業を頑張って
やるつもりですというようなコメントを言っておられましたが、
「全知全能」という言葉使いは間違っていると思います。
全知全能とは、全てを知り、全てを行うことが出来るという
意味です。神さまとは、日本人が軽く拝む「八百万の神」の
偶像や死んだ先祖や、立派な木や石や動物のことではなく、
世界を創られた創造者のことです。聖書の神が言いたい
ことは、人は神さまに創られたのに、その神さまを拝まず、
悪の霊や、自分の好きな宗教を作って拝み、神さまから
離れていること。
人間は死後にその罪を裁かれること。人間の努力によっては
誰も天国に行けず、神さまの用意された「あがない」の
供え物によって救われるということです。「あがない」の
供え物が屠(ほふ)られることによって、罪は「あがなわれる」
のです。「あがない」とは、代価を払って買い取るという意味です。
罪の無い者が、罪の有る人類の代表となり、
世界中の人間の罪の裁きを背負い、神さまに裁かれるという
方法です。
神さまは、その為に、ひとり子の神を人として遣わしました。
それがイエス・キリストです。
日本人は、全ての宗教はひとつの山を登る道で、結局は
みんな同じ神を拝んでいるのだという考え方をします。
聖書は、神とは世界の創造主ただひとりであり、父である神と
子の関係である神と、聖霊の神がいて、それは「三位一体」の神
なのだと書いています。
神が創造した者は「神」ではなく「創造物」です。神を創った神は
存在しません。神とは「あってある。」「あるからある。」
「初めからある。」と言う意味です。三位一体(さんみいったい)
の神は、初めから存在したから「神」と呼ばれるのです。
三位一体とは、神と呼ばれる父である神、子である神、聖霊の神が、
全く同じ地位で、同じ性質、同じ力を持ちながら、三つの別々の
存在であり、また同時に一つの神であるという意味です。
父である神が子である神を、人間としてこの世に送られたこと、
神の子であるイエス・キリストがあなたが受けるはずの罪の裁きを
十字架の上で身代わりに受けたのだと、神さまは聖書からあなたに
語っているのです。
裁きは終わっているので、あなたは死後、地獄に行く必要は
ありません。ただ、これは神からの無償の贈り物なので、
あなたが神さまに「ありがとう。」と言わなければ自分のものには
なりません。神さまの愛を受け取るか受けとらないかは、
あなたが決めなければなりません。
神さまは、このことを信じた者は、罪が赦されると約束しています。
罪の裁きから救われ、死後も神の国である天国にいけるのだと、
約束しています。また神さまを信じた者は、聖書から神さまの
願いを知り、神さまを喜ばせたいと思うので、自然に習慣的な罪から
離れるようになると書いてあります。
神さまは神さまを信じる者が、神さまの愛に応えて生活することを
願っておられます。
つまり、神さまを信じると言いながら、習慣的に神さまの嫌がる罪を
続けている人は神さまを愛していない人だということです。
神さまを信じていない人は、神さまを愛することはできません。
神さまを信じない人は神さまを愛さず、罪を愛します。
あなたが何を愛するかによって、あなたの行動は変わります。
愛する人が喜ぶことをしたいと願うなら、あなたの生活は変わって
きます。
ある人が神さまを喜び、神さまが喜ぶことをする時、
神さまの愛がその人を通して現れるのを見ることができます。
神さまは、あなたが自発的に神さまの願いを受け入れ、
罪に従わず、愛によって生きることを願っておられます。
あなたが先ずそう願い、神さまがその願いを聞き入れて、
あなたの生活を変えてくださるのです。
あなたを助けるのは、全知全能の神さまなのです。
このように、世界を創られた方と、生きている間に知り合い、
神さまに向かって祈り、聖書から神さまのこころを知る生き方は
実は人間のあるべき姿なのです。悪の霊におびえ、将来に
不安を持ち、罪の奴隷のように生きて、最後には死後に裁かれ
地獄で永遠に苦しむという人生を、神さまは望んでおられません。
神さまと共に生きるのが、人間の本来の姿です。そのように
人間は神さまに創られているのです。