進化論も信仰だ。創造主を信じるのも信仰だ。
インドネシアでは、豆柴ぐらいの鹿がいる。
一応保護されている鹿だ。インドネシアのホテルの動物園で
実物を見た。そんなに小さな鹿を見たのは初めてだったので
驚いた。世界には小さい鹿がいるんだと思った。
この調子なら、犬ぐらいの小さい馬もいただろうな。
小さい馬の化石を大きい馬の次に並べて、
「進化しました。」というのが進化論だ。玄関にお父さんの
靴とお母さんの靴と子供の靴があったら、並べてみればいい。
今ある化石を並べて「進化しました。」というのが、進化論だ。
実験室で、ある種の生き物が、時間の経過によって、
別の種に変化したと、証明できたわけではなく、今ある
化石を見て、想像しているだけだ。
昔の人間の骨をつないで、猿の顔と姿を想像して絵を描き、
今の人間の姿の横に並べる。そして「進化しました。」と言う。
デジカメを古いのから新しいのまで並べて友達のお母さんが
「デジカメってどんどん進化するね。」と言う。
簡単に進化という言葉を使う。
DNAの中に進化の歴史が残っていると、雑誌は見出しを書く。
どこかの大学生は「進化は証明された。」とブログで書く。
科学とは、実験室で実験されて始めて証明されたと言えるものだ。
歴史は、残された物から、過去の事実を知るものだ。
人間が猿から時間の経過によって偶然によりよい物に変わって
これたのか、それとも世界のデザイナー、つまり唯一の創造主が
世界を創られたのかは、今あるものを見て想像しなければ
ならない。キャンプをした朝に、テントのまわりに熊の足跡が
あれば、夜中に熊が歩き回ったのだろう。そんな感じで
さあ、世界を見回そう。世界は分子と原子でできている。
原子はエネルギーでできている。何かがエネルギーを
崩壊させることなく、原子のままにキープしている。
エネルギーとは、目に見えない力だ。目に見えない力と、
世界を形造る基本的なデザインの存在は何を意味するか。
神さまが存在すると信じるか、生き物は進化するものだと
信じるかそれは信仰の問題だ。
わたしの提案は、学校では進化論も何も教えず、
聖書と進化論の本を生徒に渡して、勝手に好きな方を
勉強しなさいと言っておけばいいんだよ。わたしは、
神さまの存在を信じているので、学校で進化論を習うのは
気分が悪かったし、ドラえもんで進化の話しが出てくると
ムッとするし、進化論を信じているくせに、幽霊ばなしも
信じる日本人が嫌い。どの道から登っても、同じ山に登って
いるんだという変なたとえ話をする典型的な日本人が嫌い。
多神教の者が信じる神と、唯一神を信じる者が信じる神が
同じと思うのが間違っている。豊臣秀吉がいたか、いなかったか
論証しているようなもので、いろんな記述や絵が残っていれば
彼が存在していたと、信じることができる。自然界の生物や
しくみを見れば創造主の存在をそのまま現しているとわたしは
信じる。実際に毎日神さまを信じてお祈りをするし、聖書も
読むし、神さまに助けられて生きているから、神さまを信じない
人に進化論を教育されても、信じるわけがない。それだけだ。