愛するものに死なれたら
愛するものに死なれたら、人はその喪失に苦しむ。
愛はこころのなかに、まだたっぷりあるのに、その対象は
動かぬむくろと化してしまった。受け入れがたい現実である。
その愛するものと、過ごした幸せな時間が、空間が、充実した
想いが、死によって断ち切られてしまったのだ。
愛するものが死んだときに、これからも幸せに暮らせたで
あろうと、予測された未来は消えてしまう。
人は心の中に、夢を持って生きる生き物なのだ。
愛するものと共に生きる夢が消えたので、人は絶望に
打ちのめされる。この現実に耐えて生きなければ
ならなくなる。
愛するもの抜きの人生が始まる。その未来におびえる。
そして、終わることの無い後悔の念に襲われる。
もっと、一緒にいてあげればよかった。あの時、こうすれば
もしかすると、もっと、長く一緒に過ごせたかもしれない。
もっと優しくしてあげればよかった。もっと早く
異変に気が付けばよかった。そして、自分を責めだす。
悲しみを薄めるために、別の痛みを加えだす。そして、
病院に対して疑い、自分に怒り、十分な事をしてやれなかった
過去を反復して悔やんでみる。本当は悲しいだけなのだ。
愛するものを失った事が悲しいのだ。
死んでしまったものは、もう側にはいない。
ただし、死んでしまった後にも、愛するものが、残して
くれるものがある。愛する対象に出会えたという幸せ。
一緒に過ごした思い出。愛するものが、愛で答えて
くれたという事実と、それによって得た経験と自信。
こころの中に、愛するものは生き続けている。過去が
あって、今がある。今があって未来がある。人は時間の
中に閉じ込められて出られない。神さまなら、時間の外
から、過去も未来も見えるのだろう。
夜空の星の光も何億光年も昔の光線が届いたもの。
愛するものがくれた愛は、過去のもので、今は無い。
けれども、今でもその愛は有効なのではないか?
実体は側にいなくても、光は見えているのではないか?
時間の外から見るならば、愛するものと過ごした
時間はまだそこにあるのではないか?悲しみが大きいほど
もらった愛は大きかったともいえるのではないか?
愛するものが望むことは、未来に続く幸せだとすれば、
いつまでも悲しみに打ちひしがれていてはいけない。
残されたものや時間を数えて、前に踏み出すのが
いい。神さまに、今までの幸せと、今ある幸せを
感謝して、明日に向かって行くのがいい。
愛するものに愛されたことに誇りを持って、もらった愛を
大切に育んで次のものに与えるのがいい。
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10ヶ月前に、13年一緒に過ごしたN猫ちゃんが死んで
久々に悲しい想いをした。今でも思い出せば泣いてしまうけど、
N猫ちゃんに出会えて幸せだった。
優しい猫だった。友達もみんな認めるほどすごい猫だった。
N猫ちゃんのオーナーになれたことを誇りに思っている。